「黄金のアウトプット術」は現代人のインプット過多を嘆く
今回紹介するのは成毛眞「インプットした情報を『お金』に変える 黄金のアウトプット術」です。
バイト中のおつかい中に毎回立ち寄っちゃうブックオフの店頭に売られていて何の気なしに購入。こういうとき電子決済って財布のひもどころか財布がないからね、緩むのは頭なのかね、買っちゃう。安く買えたから肩にも力入らず、いつもだったら遅読で一ヶ月はかかるだろう分量(全然読みやすい本なんだけどね)をさらっと1週間で読破!その理由は値段だけにあらず!とにかく内容が面白い!タメになりまくりでした。
インプットするだけの人が1万人いるなら、アウトプットもしている人は十人にも満たない
本文中で成毛氏も述べているように、現代人は真面目な人ほどインプットには熱心であるにも関わらず、アウトプットはおろそかにしがち。なぜかといえば、それはアウトプットを難しく考えすぎているからかもしれません。それか、まだまだインプットが足りないと考えているからか。この本は、タイトルを見て思わず気になってしまった、まさに今これを読んでいるような人にオススメですね。
内容は大きく、
<書くアウトプット>
<話すアウトプット>
<見た目のアウトプット>
<インプットソース>
の4つに分かれています。各章ごとにいくつかサブタイトルが用意されているので、サブタイトルだけを追ってもタメになるし、気になるタイトルだけをつまんで読んでもいいかもですね。ただ内容の充実の割にサクサク読めるのでつまみ読みする必要はあまりないと思います。
いわゆるビジネス書のようなデザインで、ページ内に活字がびっしりという感じではないです。文体も口語的というわけではないんですが、著者の語り口が伝わる文章になっているので、非常に読みやすいです。この『文章の読みやすさ』というのも成毛氏本人が本文中で触れているように、アウトプットにおける重要なポイントなので、そこはまさに本書からも感じられるようになっていますね。
一番印象的だった一節。
現代ではSNSはアウトプットの媒介としてますます重要度を増していますから、成毛氏も冒頭でSNSについて触れているのですが、ここまでスパッと言い切ってくれるのは気持ちがいいですね。それだけアウトプットが大切だということですが、この一節に代表されるような歯切れの良い核心をついて文章がいくつもあるので、読んでたら嫌でもアウトプットしたくなりますよ。
もう一つタメになった点を引用するなら、書くアウトプットに関するコツ、
800字と思うな、100字×8と思え
ですね。文章はテーマや字数などである程度制限を設けたほうが書きやすくなる、と成毛氏は説明しているんですが、字数を決めて書く場合にも、さらにそれをいくつかのブロックに分け、意味段落を構成して書くべきだと言っています。実は僕、今まさにこれを実践して書いてるんですが。すげー書きやすい!800と言われると筆が進まないですが、100字ならツイートより短いですから、楽勝ですね。
読むまで知らなかったんですが、この本の著者成毛眞氏、元マイクロソフトの社長なんですね!内容の信頼性が一気に急上昇、、、他にもいくつか本を出していて、「大人はもっと遊びなさい」「本は10冊同時に読め!」なんかはもうタイトルからしてそそられますね。この機会に他の書籍にも派生していきましょうかね。
はい、このように自分の読んだ本や観た映画、行った場所なんかについて他人の目に触れる形で文章化していくことは本当に大切なようです(素知らぬ顔)。ただ、SNS時代においては誰でも物書きみたいなものですから、文章プラスα何か、その何かに当たるアウトプット技法を習得することが大切だと、成毛氏も言っていました。この本は自分に合ったアウトプット法、プラスα発見の一助になるのではないでしょうか。ぜひ。
水泳、難病、OJT
⚫️久しぶりに水泳に行った。
近くにちゃんとした国営の水泳場があるので、本当はもっと頻繁に利用してもいいくらいなのだが、これがなかなかどうして行く気にならない。泳ぐのは好きなのに。
で、久しぶりに重い腰を上げた。
すごく楽しかった。
水泳が好きかどうかは、抵抗を楽しめるかどうかだと思う。
2トントラックとすれ違えばブオン!と風が吹くのだから、僕らは普段から空気をかき分けて前に進んでいるのだが、いかんせん、奴らは空気の読めるやつらだから、僕らが通ると飄々と道を開けてくれる。
それに比べ水はどうだ。
ヘソのあたりまで水位があればもう十分。歩くのだって一苦労である。
それでもなんとか足を前へ前へと踏み出すと、次第に流れに乗ってくてスイスイ歩けるようになってくる。
するとその分の流れはすれ違う人にとっての逆流になる。
流し流され。。。
なんかうまいこと人生の教訓に昇華できそうだけどそのパッションが今はない。
⚫️患者数の少ない難病の情報ばかりを無料で公開しているサイトがある。
http://www.orpha.net/national/JP-JA/index/home/
正直普段使いには向いてないのだが(不謹慎なら失礼、自粛はしないので止めてみな)、こういうサイトがある、と知っておいて損はないと思う。
さっきちょろっと見たら、僕が3、4歳のころにかかった病気と非常に病名が似ているものが載っていた。多分親戚だろう。覚えちゃいないがあの時50パーセントの確率で死んでいたらしいから、人生はやはり生きているだけで丸儲けなのよね。
⚫️少し前、興味深い記事があった。
個人的には人から教わることが苦痛でしょうがない。なんなら教えることは教える側の優越感や人の役に立っているという喜びのためでしかないと思っているので、自分が指導側に回らないといけないときは最低限のことだけ教えてあとは放任する。多分、放任されると何がわからないのかわからないという人がいると思うが、その時はそう言ってくれればいい。教わる側のくせにへりくだったり、そもそも教わること自体プライドが許さないという個人的な未熟さを差し置いて、教える側に八つ当たりする場合があるので注意したい。
教育の話になると、やはり大学受験が思い起こされる。
日本独特の特徴として、入学が難しく、卒業が難しい。
ということは、在学中にうんこみたいな人間に成り下がっていようと入学時の成績でその人を判断する土壌が国内全体に出来上がっているということだ。
これの方がよっぽどうんこだ。
高校までの詰め込み型の教育を離れ、大学では双方向型やソクラティックの学習の頻度が高まる。アウトプットしてこそ知識である。
なのに日本ではアウトプットの機会がないがしろのされ、頭ばっかよくてなんの役にも立たない主体的な思考のできないトンチキが社会に次々に排出される。それじゃいかん。
もっと自分の頭で考えねば。
上の記事にあるような上司の指導力の問題も、教わり方の問題も根っこはここら辺にあるような気がしてならない。
ひとりの時間の過ごし方
こんなの、生き方聞かれてるようなもんじゃん。笑
SUPER BEAVERの「証明」聞いたことあるでしょ?
産まれて死ぬまで一人なのは誰も独りきりでは無いという「証明」
誰かといる時間が「ひとりの時間」ではないという考え方は危険だと思ってる。むしろ人との繋がりや関係性が孤独を作り出すのだから。
だとしたらやはり問われているのは生き方だな。
話は変わるが、「ひとり」について面白いと思うことの1つに、人間は孤独を感じられる唯一の生き物だという考え方がある。
この説に対しては実質的な反証がなされていて、どうやら間違っているらしいということでコンセンサスが取れてきているのだが、その根拠が興味深い。「孤独」は「言語」に基づくというのだ。
そもそも言葉がなければ全ての概念は定義付けられない。つまり自己と他者の区別もない。
輪廻転生しなきゃやってられんくらい食った食われたが日常茶飯の海洋生物にとっては今でも自他の区別なんてものはナンセンスなのだろうが、我々卑しい人間どもは傲慢にも自我なるものを手に入れた気になっていて、その拡大に日夜勤しんでいる。そんな感じなので、その障壁となるのがまさに「孤独」との戦いなわけである。
まあ、つまり孤独なんてあってないようなもんだろ、と思っているのだが…
このお題はこういう話を聞かれてるわけではないようなので(確信犯)、ルーチンワークの話をちょっとする。
自分はゴリゴリの内向型人間で、外にいる時、人といる時は常にバッテリーを消耗する。
充電の方法は1つ、家でゆっくりする、だ。
なので一日中アウン=サン=スーチーばりに家に閉じこもることもしばしばある。
そういう日の大体の流れはこんな感じ。
10時 完全起床
11時 ペペロンチーノ(ブランチ)
12時 新聞
13時 ゲーム(デッドバイデイライト)
14〜18時 勉強とタスク処理
19時 夕飯
20時 テレビ見ながらスマホ
21〜22時 ゲーム(ウイイレ)
23時 風呂
24時 筋トレとストレッチ
25時 本かYouTubeと共に就寝
ほっとんどこれで相違ない。
よく考えたらちゃんと1時間単位で生活が組み上がっているようだ。これでもO型である。
バイトや講義と同じくらいやむを得ないので、「家にいたい」という理由で誘いを断ることもある。なるべく嘘を言いたくもないので信頼してる人には正直に「家にいたい」と言う。そう、「家にいたい」と言われたら信頼されてる証だと思ってほしい。そして何が何でも行くほどには信頼していないのだと思ってほしい。笑
忙しいの見りゃわかるでしょ?笑
カメラ
デジタルカメラってどうやって目の前の景色を写真にしているんだろう。
世の中にはこういう使ってるけど構造はよくわからないというものが多い。
フィルムのカメラは分かる。
キーワードは露光と現像。
シャッターが切られたその瞬間にフィルムが陽の光を浴びて像が焼きつく。あとからそれを現像液という特殊な液体(この液体が、使えば使うほど新鮮な状態を保てるというまじで特殊な液体)(だからフィルムの現像を今でも取り扱ってる店はほとんどないってわけ)(ちなみに現像するならおすすめはカメラのみなみや)につけるとあら不思議撮った画像が浮かび上がるって寸法。
けどよく考えたら目の前の景色がフィルムに焼きつくというのもよく分からない話だ。
写真に写った景色と、そのとき自分の目に焼き付けた景色とが同じなのってもしかして超偶然なのではと思ったりする。
まあとにかく、カメラは「ここだ!」と思った瞬間を切り取ることができる思い出増幅装置であることは間違いない。
昔からよく写真を撮ってきた。
中学生の頃から出かけるときはデジカメを必ず持ち歩いた。
記録しなければこの日々は失われていくんじゃないかという焦りや不安があった。
それにこの日々はいつか振り返らたくなった時に、もう一度前を向くための力になると信じていた。
必ず財産になると確信していた。
そして今ではその場にいることを認められる一種の通行手形の役割も果たしている。
カメラマンがいて困ることはまずない。
カメラさえ持っていれば口数が少なかろうが多少嫌われていようが求められる存在であることは揺らがない。
存在価値を確保する。思えばそういうところが昔からあるのかもしれない。
デジタルカメラとフィルムカメラ、どちらが好きかと言われればフィルムカメラかもしれない。
撮れる枚数に限りがあるところ。
すぐにどんな写真が撮れたか分からないところ。
まあ、カメラロールは12000枚。
人体実験 753号室
当初はブログ名をこれにしようと思っていた。
派手なことはあまりできないけど、日々小さな実験を続けていく好奇心は持っていよう、という気持ちで。
結局なんか違うな、となって雑想ランデブーにした。
ご興味があれば詳しくはこちら。
zassou-rendez-vous.hatenablog.com
なんだかんだで
このブログを始めて半年が経過したらしい。
早いもんだ。
このブログに対する更新姿勢はのらりくらりの最たるものなので、現在記事数が50いかないくらい。ん、4日に1回は更新している計算になるな笑
実際には最初の一ヶ月だけハイペースで更新していたがその後はちらほらなので、こういうところに平均値の怖さが出ているほらほら中央値とか数学でやったやつ。
奇妙なことに(?)最近はほぼ毎日10回は閲覧されている当ブログ。
全然更新していないのに見に来る人がいるということは、特定の記事が検索にヒットしているか、
zassou-rendez-vous.hatenablog.com
(これとか?)
それかありえんコアなファンがいるか、のどちらかであるが僕はうぬぼれと過信がすごいので後者だと確信している。
これからも応援よろしく(なんの)
どういうこと書いて欲しいかのご要望お待ちしております。(これはマジ)
最近のあれこれ
人間は誰しも意外な一面を持っている
なんてことは言われなくてもみんなわかっている。
けどみんな一人の人間に1つの役割や、キャラクターを求めてるよな〜 と、思う。
気に食わん。
「人間」と「複雑」はほとんど同じ意味だと思う。
誰だって相田みつをを知っているし、みんな年に数回はユーモアのある返しや何かの根拠として「人間だもの」を引用する。それなのに。
この、
人間だから
という全人類に共通する前提を全人類は軽視していると思う。
だって、
そんな筋の通った一貫性のある人間いるわけないじゃん!
普段厳しく他人に一貫性を求めて、少しでも矛盾挙動があろうものなら
「あの人には失望した」
「そんなことする人だとは思わなかった」
「アイドルはうんこしないと思ってた、、」
「ダニエル・ラドクリフがマジックを馬鹿にした悪役やってる、、、」
とか言ってる人たちだって、他人に厳しく一貫性を求めるという行為自体、めちゃくちゃフラグだし、
ていうか実際そんな筋通し一貫人間いたら全然魅力感じないと思う
カタブツすぎるとか言われて失望されるのがオチだ。
そもそも大切なことは星の王子様や米津玄師が言うように、言葉にならなかったり目に見えなかったりするのが常なので、鮮血の軽薄な赤色を丁寧に覆い隠した薄茶の皮一枚眼球越しに凸ったところで何かがわかるもんか。
近づくほど見えなくなるのがマジックの基本です。
「今日渋谷で飲める人いる?」旨のつぶやき
この手のつぶやきに対しては、長い間
「はいはい遊び慣れてますアピね乙事主〜」
という姿勢を貫いてきた。
これは明らかに、渋谷にいることをマウントに使えると思っている首都圏住まい(首都を除く)の者による犯行である。
そう、ダセエのである。そう思ってきた。
しかし裏を返せば、この人ら、すごく可愛げがあるのかもしれないと思えるようになってきた。
彼らの思考は
「ウェーイ渋谷来てるンゴJAPAN!」
というより、
「せっかくかの渋谷大魔境まで馳せ参じているんでやんすから骨の髄までしゃぶりつかないと勿体無いでやんすできればかの地で共に夢の時間を過ごす盟友がいて欲しいでやんす」
に近いのかもしれないと思ったから。
、的な。
そもそもパティピーというのは孤独耐性のない精神的に未熟な人たちなんじゃないか?と思うようになった。
毎晩のように群れをなし、チームプレーを繰り返すのは一人じゃサンを救えないしダンクの1つもできやしないからだ。
なんとも可愛いじゃないか。眠れぬ夜も多かろう。
そういう発言の質が間違えてモロの君じゃなくて猩々に育てられたサン並みに周回遅れの友人のつぶやきを目にすると、ソクラティックな問答の末自らの至らなさに気づかせてあげたいなあとお節介おじさんしたくなるのだが、おじさんもそこまで暇じゃないので泣きながらバスケがしたいですとか言われても困るのです。
社会の発展に必要なのは個々人の教養や啓蒙活動よりもバカがバカやってても他の人が迷惑被らずに豊かに暮らせるような制度的保障なのかも。
まとわり
2019年、なとぅ。照り焼いてくる日差し。
ほんの十数分チャリ漕いだだけで感じる着衣水泳わず?みたいなビッチョリ感と、平坦な道を一人ノーブレーキ&猛スピードで走りながら思わず口ずさんだ夏色に、ああこの季節が遂にやってきたのだなとグサグサに感じてる。
この暑さじゃheatした僕らのislandは東京砂漠不可避だし駐車場の猫は焦げるどころか蒸発してしまうだろう。浮かれている場合ではない。
でも君に見せたいものがあるのは確かなので、まとわりついてくる夏なんてきよきよしい顔でスルーしてそこまで泳ぎ切ってみせるぜ。
まとまり
最近はまとまった文章を書いていない。
なぜならまとまった文章を書くまとまった時間がないからだ。
しかし無性にまとまった文章を書きたくなるときはよくある。
これはきっと、一度まとまった文章を書く喜びを知ってしまった以上、まとまった文章を書く欲望からは逃げられないということなのだとおもう。
まとまった文章を書きたい欲求は断続的にやってくる(こればっかりはまとまっていない)。
テレビを見るたび、新聞を開くたび、Twitterを監視するたび、インプットされた煩雑でまとまりのない情報たちが私の脳に呼びかける
「まとめなよ」
「僕らだってまとまりたいじゃん?」
「一回だけでやめたらいいよ」
「友だちもみんなやってるよ」
「すごく気持ちよくなれるよ」
「ストレス溜まってるんじゃない?」
こんな風に呼びかけられてしまったらもうダメ、絶対とか言ってられないのだ私だって人間なんだいくら至上福祉にいたろうとしたって結構彼女とラブいしウイイレを2試合までと思っていてもついつい4試合やってしまうし自己顕示欲つおいから新しくお茶を中心に自分の趣味をひけらかすインスタアカウントを開設してしまうし、
コチラからどうぞ753.4 the good of 🍵☕️✒️📎 (@chakramamekra) • Instagram photos and videos
全然煩悩のまとまりである。欲しいものもたくさんある。
https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/4ORN0UYP8JZH?ref_=wl_share
どうやら私はまとまったパンドラの匣をまとめて開けてしまったようだし、まとまり依存症なのかもしれない。まとまり専門外来があればそこに行くのが早いだろうがこの病はまだ多分そこまで認知されていない(認知脳科学のことではない)ので最近梅雨の疲れが溜まってきて体もだるいし行きつけの鍼灸院に行くことにするあとで予約しよ。
肝心のこの文章にはまとまりがないのだが、
まとまった文章を書く時間はないという話をしているのだから一応筋は通っている。
筋ではなくまとまりが欲しい。
しかし奇しくも、ちょうど自分が義理とか筋は通すけれど、団体行動とかまとまって動くのを好まないのと同じような構図になっていておかしい。
人間としてはちゃんとまとまってるのかも。
でもやっぱりこの文章にはまとまりがない。
抽象化桃太郎 前編
過去も現在も未来も同様に意識の作用でしかないとはいえ、いわゆる万人の共通認識では遥かな過去の話として、少なくともここではない具体性を欠いたところに、生きていることより死んでいることが親和的になった性染色体XXのヒト(以下:X)とXYのヒト(以下:Y)がいました。
Xはなんらかの要因により地面が隆起し標高の高くなったところへ小枝やソダと呼ばれるものを刈りに、Yは絶え間なく水流れるところへ衣服を洗って汚れを落とし綺麗にしに行きました。
Yが絶え間なく水が流れるところで衣服を洗って汚れを落とし綺麗にしていると、どんぶらこっこどんぶらこと、絶え間なく水が流れるところの上方から大きなバラ科モモ族の落葉小高木の果実が流れてきました。
Yはそのバラ科モモ族の落葉小高木の果実を人が住むための建物に持ち帰りました。
バラ科モモ族の落葉小高木の果実を食べようと割ったところ、バラ科モモ族の落葉小高木の果実の中から元気なまだ生きていることと親和的な性染色体XXのヒト(以下:XX)が飛び出しました。
まだ生きていることと親和的なヒトがいなかったX、Yは大変喜んで、バラ科モモ族の落葉小高木の果実から生まれたXXに桃太郎と名付け、大事に育てました。
大きく成長した桃太郎は、鬼ヶ島へ日本の妖怪と考えられている、伝説上の存在の一種退治に行くことになりました。
つづく