753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

師走って名付けたやつ天才か?

 年の瀬だなー、と最初に感じたのはあれ、千葉市美術館でやってる企画展「目〜非常にはっきりと分からない(的な名前、あってる?)〜」を観に行こうと思ったとき。あれ、28日までなんですって。行きたかった。

まだ27日なのに過去形なのはバチボコ行く時間がないからなんですけど、時間は作るものですよね、判ります。でも、行けないのです。なにしろ28といえばもう明日の話、今日はバイトのあと忘年会、明日は夕方から別のバイト。時間がない。

 理論的欠陥に説き及ぶ前に、2つのバイトの関係性の話を。前者は2年位前からやってる弁護士事務所の事務屋。後者は近所のテーマパークのキャスト。正確にはゲーセンの従業員。あとから始めたけどこっちの方がよく入ってる。

後者を始めた理由は結構単純で、彼女が2年くらい前から既に働いてたところ、経営不振のため会社が交代する、マンパワーがやたら不足するなど諸問題が発生していたのでそれじゃあって手を挙げただけ、単純でしょ。

彼女が働くと店が潰れるって話はまた今度ね。主な業務は来客対応(レジ打ち)とお茶(などのドリンクバーを利用したい人へのコップ)出しなので、やってることは事務所と一緒。お茶出しなんか専売特許。マイブームは一煎目二煎目のミックス。

面白いのは、ゲーセンを始めてから、事務屋の仕事が上手くできるようになってきたこと。こういうのなんていうんだろ、名前をつけたい。暫定的に相乗効果と呼ぼう。あ、シナジーってどうだろう!

 話を戻そう。あ、年の瀬ってどういう由来なんだろう。いや、話を戻そう。どうも、年末は息つく暇がなくていけない。昨日は一日軟禁で、溜まってた新聞28冊に目を通した。1日2紙朝夕刊で4冊。つまり1週間分。

これは要するに1週間怠惰していたということであるし、ずっと読む暇がなかったということでもある。そして昨日は新聞だけ読んで1日終わった。ツケが溜まるとはこのこと。ひい。どうも、年末は息つく暇がなくていけない。28日までなんですって?行きたくなくなった。

「パーティで女の子に話しかけるには」ーーパンクとSFの優良ハイブリッド

パンクなのに内気な少年エンは、偶然もぐりこんだパーティで、反抗的な瞳が美しい少女ザンと出会う。大好きなセックス・ピストルズやパンクファッションの話に共感してくれるザンと、たちまち恋におちるエン。だが、ふたりに許された自由時間は48時間。彼女は遠い惑星へと帰らなければならないのだ。大人たちが決めたルールに反発したふたりは、危険で大胆な逃避行に出るのだが―

 

エル・ファニングにこの演技をさせた製作陣、グッジョブすぎる。奇妙な設定なのに、だからこそ現実とのリンクが胸を打つ。シチュエーションSFの醍醐味が味わえる不思議と胸がじんわりとする映画。

 
単純な恋愛モノに飽きてきた人、今までになかったエルファニングの一面が観たい人にオススメ。あとはパンクってなんだろう?って人のパンク入門にも。


説明ゼリフで白けさせない代わりに最後までよく分からない宇宙人設定も“パンクだから”という理由でねじ伏せる強引さ。完成度が低いという見方もできるかもしれないが、個人的にはこれは加点ポイント。映画としての荒さが主人公たちの若さやパンクへの熱望、向こう見ずな部分とリンクして全体として親和性の高い仕上がりになっていると思う。 


エンディングはそこまでひねりなし。悪くはないけどもうひと押し足りないという点で星4。閉鎖的な街に辟易した若者たちのたどり着いた境地としてのパンクを描いた作品でもあるので、大きな展開はないが、それでも退屈しないだけの絵力のあるパンクの世界観。主人公2人の歌唱シーンは必見。


出演者の中で注目はやはりエル・ファニング(ザン)。宇宙人流のルールにうんざりしたザンがパンクに目覚めるシーン、そしてその衣装は1番の見どころ。シビれる。


またセリフとしては、ザンが決して栄えているとは言えない街の夜景を見て、「宝石みたい」と言うセリフが印象的。宇宙人ならではの視点からこの世界を再認識させる演出が随所に。

 
監督はヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」のジョン・キャメロン・ミッチェル。総じて音楽と映画の融合が武器の監督。


にしてもタイトルとフライヤーからは内容が予想できない良い意味で裏切られる映画。新しい映像表現が目白押しなので、ちょっと変わった映画を観たいときにおすすめ。

「(500)日のサマー」ーー残酷なまでの「運とタイミング」。けどそれに尽きる。

運命の恋を夢見る男の子と、真実の愛なんて信じない女の子の、ビタースウィートな500日ストーリーサマーに恋をした、最低で最高の500日。建築家を夢見つつ、グリーティングカード会社で働くトムは、秘書として入社したサマーに一目惚れしてしまう。意気投合し、いいムードになった二人。トムがサマーに「彼氏はいるの?」と聞くと、サマーの答えはノー。恋愛と友情の間に果てしなく広がるグレーゾーン。人を好きになるって、どうしてこんなに楽しくて切ないんだろう。誰もがまた恋したくなる、二人の(500)日がはじまる!

 

なるほど、これはボーイ・ミーツ・ガールの物語。
恋愛モノらしい人物描写をせずに、淡々と男性目線で描かれる男のバカさ短絡さ単純さ思い込みの強さ。

サマーの人物設定はシーンとして盛り込むというよりはナレーションベースで、逆にサマーの魅力についてはズー・イー・デシャネルの演技で魅せている。
カクテルパーティーで初めて2人がしっかり会話するシーン、彼女はトムの驚きの表情を自分の顔にデフォルメコピーして目を見開いている。こういう部分にサマーの共感性の高さが現れている。
シーンとして盛り込まれた人物描写としては「人気がないからリンゴスターが好き」というのが印象深い。
ただ、「こんな話したのは初めて」というセリフが結局何の伏線にもなっていないように、サマーは本当に何も深い意味のある言葉は発していない。けど嘘も言っていない。
拡大解釈するのはいつも男の方。

主人公のトムが冴えない髪型というのも重要。
アバウト・タイムのティム然り、髪型に頓着しないというのは分かりやすい人物設計。

全ては見方、視点一つでひっくり返る。
トムがサマーの好きだったところを嫌いなところにすり替えるのはまさにその典型。
また、最後に招かれたパーティーでの理想と現実の乖離。虚しいけど、実際にこういう「思った感じと違う」というのは避け難く存在する。
どちらも男性特有の思い込みや皮算用が表現されていて面白い。

改めて感じたのは“serendipity ”(思いがけず出会う幸運)とそれを起こすために必要な3A("Action”“Awareness”“Acceptance”)の大切さ。
どこで何に出会うかわからない。
家に閉じこもってないで行動しよう。

それにしてもズー・イー・デシャネルという人間は本当に魅力的。国籍関係なしに見れば見るほどどんどん好きになっていく。彼女の魅力は普遍的なんじゃないか。
イエスマンをまだ観てない人にはイエスマンを、既に観ている人には海外ドラマ「NEW GIRL」をおすすめ。
ズー・イー・デシャネルがずっと可愛い。

「小夏日和 ふるさとは、わたしの未来でした。」は、高知の魅力を詰め込んだ静かな作品でした

唐田えりか濱田龍臣主演の本作「小夏日和」は、高知県を舞台にした作品。

高知の美しい景色をたくさん見る事のできる、とても優しい作品でした。

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変わらない風景が嫌いで町を飛び出して以来、二年振りに小夏(唐田えりか)が高知に帰ってきた。
突然の再会に驚く幼なじみの日和(濱田龍臣)に、小夏は悩みを打ち明ける。翌朝、日和は小夏をある場所へ連れていき…。

ストーリー自体は単純で、大きな展開はあまりないのですが、それでも十分な見応えのある作品だと思います。

 

とてもゆっくりとした時間の流れる作品になっていて、都会の喧騒に疲れた主人公・小夏のように、忙しない日常からエスケープして、非日常的な世界で小休止したい人にオススメです。主演の唐田えりかも作品の雰囲気にとても合っていて(もともと彼女はこういうタイプの作品との相性がとても良い)、彼女ファンの方も納得の作品じゃないでしょうか。

 

一番の見所は先ほども述べたように、作品の舞台となっている高知県の魅力的な景色が詰め込まれた情景描写です。とにかく行ってみたくなる美しい景色ばかり。主人公の小夏が嫌いだと言った高知のずっと変わらない風景は、変わらないからこそ昔の面影を残していて、作品全体に良質な空気感を漂わせてますね。

 

この作品、もちろん出てくる景色どれもが良いんですが、これ、ただ漫然と良い景色をカメラに収めているわけじゃないんですよ。ひとつひとつかなり構図にこだわって撮っていると思います。物語に合わせたシーン選びと、そこで演者をどう撮るのか。これだけ展開の少ないストーリーで作品の中に情緒に出せているのは、撮り方によるところが大きいと思います。

 

唐田えりか演じる小夏は「写真を撮るために帰ってきた」と作中でも言うようにカメラを常に持ち歩いていますが、実際に現場でも唐田えりか自らカメラを手に景色を撮っていたそうで、その写真はエンドロールにも使われています。どれも、味があってとても良いですね。

 

濱田龍臣演じる日和のセリフ、

変わろうとしうき、ずっと変わらずに居れるがや。

これがこの作品全体に圧倒的な意味性を持たせています。

実際に観るとわかりますが、本当に波のない穏やかな作品なんです。だけど、何か感じるものがある。それは《動的平衡》と呼ばれる、このセリフに代表される大きなテーマ性があるからです。

変わらないために変わり続ける

高知の大自然から感じられるのは、1年で全てが入れ替わる、僕たち人間をかたどる細胞とも同じバイオリズム。

みんなが知っているはずの、だけど忘れがちなとても大事なことを、この作品を通じて感じることができます。

 

制作に関しては、ニューヨークフェスティバル金賞などを受賞した、「つくるということ」のカンテレ技術スタッフの再集結となっています。「つくるということ」はファッションブランド「ミナ ペルホネン」で使われる生地制作の過程を撮影した作品で、語りは蒼井優が務めています。カンテレのドラマは優しい雰囲気の作品が多いみたいですね。

 

僕は最近唐田えりかがとても気になっていて、彼女のインスタを観ていてこのドラマを知りました。これからカンテレにも注目していこうかな。 リトル・フォレストカモメ食堂のような静かな映画が好きな人、忙しない日常から現実逃避したい人におすすめです。カンテレドーガのサイト又はアプリから10月14日まで無料配信中ですので、是非。

 

ktv-smart.jp

kochi-experience.jp

「黄金のアウトプット術」は現代人のインプット過多を嘆く

今回紹介するのは成毛眞「インプットした情報を『お金』に変える 黄金のアウトプット術」です。

 

バイト中のおつかい中に毎回立ち寄っちゃうブックオフの店頭に売られていて何の気なしに購入。こういうとき電子決済って財布のひもどころか財布がないからね、緩むのは頭なのかね、買っちゃう。安く買えたから肩にも力入らず、いつもだったら遅読で一ヶ月はかかるだろう分量(全然読みやすい本なんだけどね)をさらっと1週間で読破!その理由は値段だけにあらず!とにかく内容が面白い!タメになりまくりでした。

 

インプットするだけの人が1万人いるなら、アウトプットもしている人は十人にも満たない

 

本文中で成毛氏も述べているように、現代人は真面目な人ほどインプットには熱心であるにも関わらず、アウトプットはおろそかにしがち。なぜかといえば、それはアウトプットを難しく考えすぎているからかもしれません。それか、まだまだインプットが足りないと考えているからか。この本は、タイトルを見て思わず気になってしまった、まさに今これを読んでいるような人にオススメですね。

 

内容は大きく、

<書くアウトプット>

<話すアウトプット>

<見た目のアウトプット>

<インプットソース>

の4つに分かれています。各章ごとにいくつかサブタイトルが用意されているので、サブタイトルだけを追ってもタメになるし、気になるタイトルだけをつまんで読んでもいいかもですね。ただ内容の充実の割にサクサク読めるのでつまみ読みする必要はあまりないと思います。

 

いわゆるビジネス書のようなデザインで、ページ内に活字がびっしりという感じではないです。文体も口語的というわけではないんですが、著者の語り口が伝わる文章になっているので、非常に読みやすいです。この『文章の読みやすさ』というのも成毛氏本人が本文中で触れているように、アウトプットにおける重要なポイントなので、そこはまさに本書からも感じられるようになっていますね。

 

一番印象的だった一節。

SNSで何一つアピールしていない人間は、SNSに存在していないに等しい。

現代ではSNSはアウトプットの媒介としてますます重要度を増していますから、成毛氏も冒頭でSNSについて触れているのですが、ここまでスパッと言い切ってくれるのは気持ちがいいですね。それだけアウトプットが大切だということですが、この一節に代表されるような歯切れの良い核心をついて文章がいくつもあるので、読んでたら嫌でもアウトプットしたくなりますよ。

 

もう一つタメになった点を引用するなら、書くアウトプットに関するコツ、

800字と思うな、100字×8と思え

ですね。文章はテーマや字数などである程度制限を設けたほうが書きやすくなる、と成毛氏は説明しているんですが、字数を決めて書く場合にも、さらにそれをいくつかのブロックに分け、意味段落を構成して書くべきだと言っています。実は僕、今まさにこれを実践して書いてるんですが。すげー書きやすい!800と言われると筆が進まないですが、100字ならツイートより短いですから、楽勝ですね。

 

読むまで知らなかったんですが、この本の著者成毛眞氏、マイクロソフトの社長なんですね!内容の信頼性が一気に急上昇、、、他にもいくつか本を出していて、「大人はもっと遊びなさい」「本は10冊同時に読め!」なんかはもうタイトルからしてそそられますね。この機会に他の書籍にも派生していきましょうかね。

 

はい、このように自分の読んだ本や観た映画、行った場所なんかについて他人の目に触れる形で文章化していくことは本当に大切なようです(素知らぬ顔)。ただ、SNS時代においては誰でも物書きみたいなものですから、文章プラスα何か、その何かに当たるアウトプット技法を習得することが大切だと、成毛氏も言っていました。この本は自分に合ったアウトプット法、プラスα発見の一助になるのではないでしょうか。ぜひ。

 

水泳、難病、OJT

 

⚫️久しぶりに水泳に行った。

近くにちゃんとした国営の水泳場があるので、本当はもっと頻繁に利用してもいいくらいなのだが、これがなかなかどうして行く気にならない。泳ぐのは好きなのに。

で、久しぶりに重い腰を上げた。

すごく楽しかった。

水泳が好きかどうかは、抵抗を楽しめるかどうかだと思う。

2トントラックとすれ違えばブオン!と風が吹くのだから、僕らは普段から空気をかき分けて前に進んでいるのだが、いかんせん、奴らは空気の読めるやつらだから、僕らが通ると飄々と道を開けてくれる。

それに比べ水はどうだ。

ヘソのあたりまで水位があればもう十分。歩くのだって一苦労である。

それでもなんとか足を前へ前へと踏み出すと、次第に流れに乗ってくてスイスイ歩けるようになってくる。

するとその分の流れはすれ違う人にとっての逆流になる。

流し流され。。。

なんかうまいこと人生の教訓に昇華できそうだけどそのパッションが今はない。

 

 

⚫️患者数の少ない難病の情報ばかりを無料で公開しているサイトがある。

http://www.orpha.net/national/JP-JA/index/home/

正直普段使いには向いてないのだが(不謹慎なら失礼、自粛はしないので止めてみな)、こういうサイトがある、と知っておいて損はないと思う。

さっきちょろっと見たら、僕が3、4歳のころにかかった病気と非常に病名が似ているものが載っていた。多分親戚だろう。覚えちゃいないがあの時50パーセントの確率で死んでいたらしいから、人生はやはり生きているだけで丸儲けなのよね。

 

 

⚫️少し前、興味深い記事があった。

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個人的には人から教わることが苦痛でしょうがない。なんなら教えることは教える側の優越感や人の役に立っているという喜びのためでしかないと思っているので、自分が指導側に回らないといけないときは最低限のことだけ教えてあとは放任する。多分、放任されると何がわからないのかわからないという人がいると思うが、その時はそう言ってくれればいい。教わる側のくせにへりくだったり、そもそも教わること自体プライドが許さないという個人的な未熟さを差し置いて、教える側に八つ当たりする場合があるので注意したい。

教育の話になると、やはり大学受験が思い起こされる。

日本独特の特徴として、入学が難しく、卒業が難しい。

ということは、在学中にうんこみたいな人間に成り下がっていようと入学時の成績でその人を判断する土壌が国内全体に出来上がっているということだ。

これの方がよっぽどうんこだ。

高校までの詰め込み型の教育を離れ、大学では双方向型やソクラティックの学習の頻度が高まる。アウトプットしてこそ知識である。

なのに日本ではアウトプットの機会がないがしろのされ、頭ばっかよくてなんの役にも立たない主体的な思考のできないトンチキが社会に次々に排出される。それじゃいかん。

もっと自分の頭で考えねば。

上の記事にあるような上司の指導力の問題も、教わり方の問題も根っこはここら辺にあるような気がしてならない。

ひとりの時間の過ごし方

お題「ひとりの時間の過ごし方」

 

こんなの、生き方聞かれてるようなもんじゃん。笑

SUPER BEAVERの「証明」聞いたことあるでしょ?

産まれて死ぬまで一人なのは誰も独りきりでは無いという「証明」

誰かといる時間が「ひとりの時間」ではないという考え方は危険だと思ってる。むしろ人との繋がりや関係性が孤独を作り出すのだから。

だとしたらやはり問われているのは生き方だな。

 

話は変わるが、「ひとり」について面白いと思うことの1つに、人間は孤独を感じられる唯一の生き物だという考え方がある。

この説に対しては実質的な反証がなされていて、どうやら間違っているらしいということでコンセンサスが取れてきているのだが、その根拠が興味深い。「孤独」は「言語」に基づくというのだ。

そもそも言葉がなければ全ての概念は定義付けられない。つまり自己と他者の区別もない。

輪廻転生しなきゃやってられんくらい食った食われたが日常茶飯の海洋生物にとっては今でも自他の区別なんてものはナンセンスなのだろうが、我々卑しい人間どもは傲慢にも自我なるものを手に入れた気になっていて、その拡大に日夜勤しんでいる。そんな感じなので、その障壁となるのがまさに「孤独」との戦いなわけである。

まあ、つまり孤独なんてあってないようなもんだろ、と思っているのだが…

 

このお題はこういう話を聞かれてるわけではないようなので(確信犯)、ルーチンワークの話をちょっとする。

 

自分はゴリゴリの内向型人間で、外にいる時、人といる時は常にバッテリーを消耗する。

充電の方法は1つ、家でゆっくりする、だ。

なので一日中アウン=サン=スーチーばりに家に閉じこもることもしばしばある。

そういう日の大体の流れはこんな感じ。

10時 完全起床

11時 ペペロンチーノ(ブランチ)

12時 新聞

13時 ゲーム(デッドバイデイライト)

14〜18時 勉強とタスク処理

19時 夕飯

20時 テレビ見ながらスマホ

21〜22時 ゲーム(ウイイレ

23時 風呂

24時 筋トレとストレッチ

25時 本かYouTubeと共に就寝

 

ほっとんどこれで相違ない。

よく考えたらちゃんと1時間単位で生活が組み上がっているようだ。これでもO型である。

 

バイトや講義と同じくらいやむを得ないので、「家にいたい」という理由で誘いを断ることもある。なるべく嘘を言いたくもないので信頼してる人には正直に「家にいたい」と言う。そう、「家にいたい」と言われたら信頼されてる証だと思ってほしい。そして何が何でも行くほどには信頼していないのだと思ってほしい。笑

 

忙しいの見りゃわかるでしょ?笑