753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

外の空気を感じるとき

家に居るのが大好きとはいえ、「家に居ろ」と言われるのは気持ちがよくない。自粛という本人にしかできない判断を、他人から要請される未曾有の事態。直面して気付いたのは、家を出るという選択肢の重要性だった。

 

いつでも出れるのに、出ない。外出したらしたで楽しかったり発見があったりするのに、あえて出ない。そういう怠惰さや不精さが心地良かった。なのに、家に居ることを、ただそれだけで善い行いであるかのようにされてしまう。全く面白くない。

 

理由なく外に出るなとお上から言われ得てしまった。今日も明日も明後日も、家から出る理由がない。お出かけやお散歩にも‘‘したいから‘‘以外の理由はないのだから要や急かと言われればそれはなんか違う気がする。

 

とはいえ散歩くらいなら全然構わないとは思うのだが、なんだか社会からはそれすら「憚れよ」と言われてしまうような空気を感じる。ずっと家に居るのに。換気もこまめにしてるわけじゃないのに。

 

むしろこういうときこそ、家を飛び出したくなってしまう。もちろん細心の注意を払いつつ。幸い家の近くには海も川もある。普段は遠慮させていただいてる楽しさや発見を堪能するための条件は整っている。

 

そういう気分から、新しいプレイリストを作った。その名も「M.D.N.T.H.K」(Midnight Hikeの略)。

https://music.apple.com/jp/playlist/m-d-n-t-h-k/pl.u-DdANeg3Ca0bma8

 

完全に夏の夜の散歩のための選曲。時間もきっちり往復45分を想定した91分。ダウン、チル、メロウをテーマに、どこか懐かしさを感じさせるものをメインで選んだ。悲しくて切なくて少し楽しい感じ。

 

今はもうしばらくこれを家で聴く。見えないから広がった感染の渦が、収束したときだけ見えるようになるわけもなく。一度恐れを感じたが最後、忘却と再起の波は寄せては返す。ゴールはこちらで設定しましょう。涼しい風が吹いたら家を出るとき。

less is moreみ

快適に暮らすには改変が必要だ、とふと思ってしまってからはとにかく行動せずにはいられなかった。何かを捨てるたび、同時に何かを得てもいる気がする、という感覚だけで十分だった。持つことと持たないことが同じ意味を持つ。

 

今日は昔集めてたトレーディングカード類を断捨離していた。トレカとは名ばかりに、誰ともろくに交換したりなどせず、バトルの役に立たないカードまで律儀に全てとっておいてしまっていた。体感では確実に1万枚あった体感だから。

 

映画のセリフで胸に刻み込まれているものはたくさんあって、そらで言えるものも多い。「千と千尋の神隠し」で銭婆が言ってた「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」などはまさにその典型。

 

彼女の主張は半分正しくて半分間違っている。だって全てのカードに目を通したが、半分くらいは本当に初めて見るんじゃないかというほどに記憶になくて、自分は政治家に向いているんじゃないかと思ったほどだ。

 

しかしこのメモリーとの接続感度が絶妙に断捨離向きだった。思い入れとも言えるか、一目見て懐かしさのないカードを選んでいくだけで3分の1程度まで減らすことができた。ひとまず、達成感獲得。

 

全ての選別を終え、残すものはきれいに箱に入れて再びしまい、捨てるものは詳細を記載して買取センターに申込み(性格上捨てるというのは所有者を他に移転するということであって、歴史的遺産を破棄するなど言語道断)。

 

だがどうだろう今は達成感よりも疲労感がひどい。考えてみれば選択とはすごく脳に負担がかかる行為。捨てるか捨てないかの判断を1万回(体感)したのだからそりゃ疲れるか。お風呂にするか私にするかの選択1万日分だ。

 

だから今日の残りの時間は選択の余地のないことだけしよう。燃えよドラゴンの続きを観るか?観る。ウイイレをするか?する。ワンピースの最新刊を読むか?読む。今日はとことん自分を甘やかす選択をしよう。

100日後に死ねコロナ

冒頭にコロナの話を持ってくるのは今の時世からすれば言ってみれば「拝啓」みたいもの。一旦は触れておくのが礼儀みたいになってきてる。そんなこんなで、僕らは目下コロナ渦の緊急事態におります。明日死ぬかのように生きような。

 

人間の真価が問われる場面は二つあって、その一つが危機的状況に置かれたときだ、っていう話をどっかで聞いたが聞いた話なのでもう一つがなんなのかは忘れてしまった。きっと自分だけが正しかったときだったと思う。

 

 

 

 

生物学の見地からすれば、ウイルスによる無差別殺戮は別に悪い話ではなくて、っていうか別に良い悪いとかさ、そういう話じゃないんだよね、別に何?そういうときだってあるっしょ、くらいの感じらしい特にウイルス側としては。

 

関連して言えば、終いにはついぞこの前知ってしまったのだが(曰く生物学者福岡伸一大先生)、ウイルスは原初から存在していた生物ではなく(ウイルスを生物と見るかって話もあってその話も興味深かった)、なんと我々が生み出したものだという。

 

途中完全省略。理由が面白い。生物は繁殖によって種の遺伝情報を次の世代に受け継ぐことはできる。自明。しかしこれでは縦の繋がりだけ。それでは不安定。だから横の繋がりとして、他の種族とも遺伝情報を交換して生物全体で安定を保ちたい。そこで、ウイルスだ、となったと。

 

 

 

 

だからってわけじゃないけど、多くの人は恐れ方を間違っているように思う。もちろん恐れるのは全く悪いことじゃない。俺だって閉所恐怖症に先端恐怖症、ピエロ恐怖症海洋恐怖症。多すぎて困ってる。大切なのは恐れとどう向き合うか。正しく恐れるために必要なのは“心構え”と正しい“知識“だ。

 

まず向き合おう、大体の人はえ?ってタイミングで死ぬということと。理想的に死ねると思うなよ?あと理想なんてねえよ!人の死は辛く悲しいことだ、生きてるのと同じくらい。怖いのは死ぬことじゃなくてそのもう少し前にある何かだと思う。

 

知るための鍵は、素人の発言には全てうるせえ!と思うことだと思う。今読んでるこれなんかもまさにそう、うるせえじゃん、専門知識のない奴の言うことなんか。実はこの情報自分の生存には不必要だなあ、って思うこと、多分全部テレビとTwitterからでしょ?さあ皆さんご唱和ください。うるせえ!!

「LUCY ルーシー」生半可な気持ちでは見ていけない脳と意識の物語

劇場で観賞して以来6年ぶり2度目。
当時は正直、?????状態だったが、
なぜかここ最近この映画を思い出す機会がよくあり、今なら何か分かるかもしれないと思い観賞。その通りだった。前回とは印象が全く違う。

 

これは概念、感覚、常識、科学、意識を超えていく物語。

 

まず、この映画に批判的な人たちのよくある批判だが、
「科学的根拠がない」
当たり前。“科学的に認められている”と聞くと無条件で納得する人間はやたら多いが、それは現状調べることが可能であった範囲の研究で、研究に適合した結果であるということに過ぎない。学問上の常識が覆ることは歴史の知るところ。
「意味がわからなかった」
調べるか詳しい人に聞くなり勉強をしてくれ。
「結末がよくわからない」
調べるか詳しい人に聞くなり勉強をしてくれ。
「映画の作りとしてよくなかった」
私もそう思う。それが原因でこの映画は単純なエンタメ映画なのか深淵な哲学脳科学映画なのかの狭間で実に中途半端に仕上がっている。
だからあえて言っておきたい。哲学や脳科学などの学術的な知見がある程度備わっていて、映画としての完成度に目を瞑れる人以外、見ない方がいい。

 

この映画は実に示唆的だ。
もし内容に納得できないところがあるならば、自らの頭が固くなっていること、固定観念に囚われていることを一度疑うべきなのかもしれない。それはもちろんこの映画の内容が正しいという意味ではない。しかし一つの帰結としては受け入れられて然るべきだ。

 

などと言っている私自身この映画が分かったわけではない。
いや、正確にはこの映画は我々が分かるものではない。
リュックベッソンは分からないものを分からないものとして最大限分かりやすく表現することには成功したように思う。
“全然何も分からない”ということが“分かった”感覚

それがベッソンの狙いだったのではないだろうか。

 

www.amazon.co.jp

「永遠のソール・ライター」展。カラー写真のパイオニアの豊かな色彩感覚

Bunkamuraミュージアムで3月8日(日)まで開催中の企画展

「ニューヨークが生んだ伝説の写真家 永遠のソール・ライター」

に行ってきました。

 

 

ライターを知ったきっかけ。

お気に入りに本屋の一つである、

Shibuya Publishing & Booksellers

を訪れたときのこと。

 

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 目に止まったのが、

この企画展の宣伝しおりに使われている、

ライターの代表作「帽子」

不思議と促されるようjに手に取り、

思い立ったが吉日ということで以下省略。

 

www.bunkamura.co.jp

 

詳しいことはホームページに任せますが、

概略ライターと本企画展について私から。

 

ライターは1950年代にニューヨークでファッション写真家として活躍し、

また晩年には「カラー写真のパイオニア」として、

カラー写真の表現メディアとしての可能性を広げた、

今もなおその全貌が評価され尽くしていない、

稀代の写真家です。

 

本企画展は2007年に開催されたライターの企画展を受けて、

カラー写真を含む膨大な作品の多くを整理することなくこの世を去ったライターの、

現在進行形で続く「発掘作業」による、

世界初公開作品を含んだ新たな企画展です。

 

要約するとこんな感じになるでしょうが、

とても説明しきれないのでやはりサイトに飛んだ方が賢明でしょう。

 

感想

画家としての一面もあったライターの色彩感覚にとにかく脱帽でした。

美術展に行くと毎回必ずポストカードを買うんですが、

今回は3枚。

 まず、

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僕が最初に目にした作品でもある、

1960年「帽子」

実物を見ても感じるんですよ、

「あれ、これ絵?」って。

でもその感覚こそライターの狙いなのかもと個人的に。

画家らしいというか、

リアルとフィクションの境がぼやける感覚。

ライターの、

「神秘的なことは、馴染み深い場所で起こる」

という言葉も意味がわかる気がします。

 

それから、

 

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1957年「TAXI」

これなんかまさに現実に対する色彩的な切り取りの典型。

「私はシンプルに世界を見ている」

という言葉を残した一方、

日常の中にどこか謎が潜んでいるような写真を取るのが好きだとも語っていて、

この作品でいえばぎゅっと掴まれたつり革。

語られぬストーリーを感じますね。

 

そして、

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1959年「『ハーパーズ バザー』のための撮影」

ファッション写真家として第一線で活躍していた頃の作品ですね。

ライターにとってファッション写真は、

新たな撮影・表現方法を模索する場でもあったようで、

気を抜いた瞬間を捉える覗き見的手法や、

鏡、ガラスを用いらキュービズム的な作品に意欲的に取り組みました。

この作品も鏡が効果的に使われていますね。

 

企画展の後半には半生を共にした最愛のソームズを撮影した作品が並び、

耽美的で叙情に溢れた空間となっていました。

ライターが愛を大切にし、また愛について深く考え、

そして愛に対する確信を持って生きていたことが伺えます。

写真だけでなく、哲学についてもかなり勉強になりました。

 

こういう文章、

慣れてなくて、死ぬほど時間かかったんですが、

経験のアウトプットとして、情報共有として、

こういう記事も増やしていけたらなと思います。

もう少し肩肘張らない文面で、かつ読みやすく書きたい。

頑張ります。

十分自賛

あれすごいよね、
いや、あれやばいよねにしようかな
のときのさ、迷い箸みたいなのを、
推敲というじゃん。
あれすごいよね。

 

推すにしようか、
敲くにしようか、
どっちにしようかで迷ったっていう、
中国の古事成語。
小学生の頃から使ってたじゃん先生。
分かんないよね、
いきなり“スイコウ”とか言われても。
音読みと音読み。
読み直ししてみてねえ〜と言えばいい。
けどこういう、
訳わからんけど無理やりこれはこういう意味だ、
と押し付けられることの連続なのかもしれない、
学習というのは。

 

そういえば最近知ったことがある。
キセル乗車。
あの、乗車駅近くと降車駅近くの乗車券だけを使って長距離を電車移動する処世術。
由来がね、キセルってあるでしょ。
キセル。煙管。エンカンのことね。
音読みと音読み。
あれってさ、火皿と吸い口、
つまり、端っこと端っこにだけ金属が使われている。
ちなみに間には竹が使われてる。
だから端と端にだけ“金”がある。
はい、キセル乗車。

 

こういうのをさ、調べるのに便利だよ。
コトバンク
アプリがあるのは知らなくて、
いやそりゃあるよなとは思ったけど、
考えたことなくて、
でもインストールしてみたらもう超快適。
気になったらすぐ調べて単語帳にポイッ。
と、するだけじゃなく、
基本アプリのメモの方にもメモメモ。
こうやって蓄積していく雑学ムダ知識。
ムダだと全く思ってないけど。
すいません僕なんて教養しかないので、
どうぞ“教養人”と呼んでください。
これはいつか使おうと思ってるボケ。
自虐ネタじゃなくて、自賛ネタね。
こうやって生きてる。

 

まずい、あと1分。ここまでで670字。
けっこう伏線的な部分も良くなってきたんじゃない?
今回が調子いいだけか。
てか別に良くないか。
いや、良いよね。
今日も元気に自賛ネタ。
明日の自分に乞うご期待。
タイムアップ。

十分不倫

自分は不倫をしないだろうなあ。
そう思った次の瞬間には、
喉の奥がキュッとなるのを感じていた。
これはなんなんだろう。

 

また考える羽目になった。
これはなんなんだろう。
生物の本性に立ち返ってみるしかない。
おそらく我々が皆同様に抱える大義名分は、
種の繁栄。
より多くの子孫を生み、
次世代への橋渡しをする。
健康な個体を生み出すために、
遺伝子レベルで優れた血統を嗅ぎ分ける。
匂いが僕らの判断を操る。

 

だからやっぱり、おかしい。
おかしいんだ、結婚なんて。
だって、たくさんの人と交わって、
男はたくさん種まいて、
女はたくさん受け止めて、
産ませる、産む、産ませる、産む。
種としてのヒトが、
これからも繁栄していくために、
たくさんの子供がいる。
僕らに必要なのは愛なんかじゃない。
だからやっぱり、おかしい。

 

でも、やっぱり、これもおかしい。
僕らは愛を知っている。
知ってしまった?
どこで間違えたのか。
それともやっと正しさを見出し始めたのか。

 

僕らの本能は全て生に向く。
あらゆる反射的な行動すら、
必ず死ではなく、生に向く。
生きることだけが確か。
僕らには刷り込まれている。
種の起源から連綿と受け継がれた、
生存と繁栄の本能。

 

一旦冷静になりたい。
いやいや、俺の特技は冷静。
感情的になったって、
そんな奴の言うこと誰も聞きやしない。
感情なんて自分だけのものだ。
人に感情をぶつけても何も産まない。

愛は、感情?
僕らはやはり間違っている?
残り時間が迫る。
核心に迫れない。
冷静に、冷静に。
愛は確かにある。
その意味は?
結婚してみないと、
答えは出ないのかもしれない。
僕らが種の本能を抜け出さないと。
タイムアップ。