753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

夜のサパーはさらさらいくよ

   2020/09/02
「お茶を飲むときに、 お茶に最初に触れる部分はくちびる、という人がほとんどではないでしょうか。 なにをおかしなことを言ってるのかと思われるかもしれませんが、意外な事実とも思いませんか。お茶を飲むまでには、急須で滝れて、湯呑へ注ぎ、 それを持ち上げているけれども、直接茶葉や液体には触れずに、口まで運んでいるのです。手で触れているのは、 あくまで湯呑であり急須。そう思えば、お茶に対して感じる感覚の大部分がお茶以外の要素に支配されているのではないかと思えてきます。」(TOKYO TEA JOURNAL Vol.13 巻頭ページより)


 綺麗で分かりやすく、感度の高い文章だなあと思った。今日は久々にゆっくり時間を取って一服しようと思える精神だったので、行きつけのお茶屋さん【煎茶堂東京】が発行している月刊誌『TOKYO TEA JOURNAL』が紹介するお茶を頂いた。この略してTTJ、毎号1回分の茶葉が2種類付いてきて、その茶葉に合わせてペアリングする料理の紹介や新しい飲み方の提案をしてくれる超優良誌で、煎茶堂東京のお店自体はなかなか飲む機会のない全国のシングルオリジン茶葉、つまり混ぜもんなしのノーブレンド茶を扱う日本初のお店で、銀座にあって、って、まあ詳細はワールドワイドウェブにダイブ。


 話を戻して。このあと文章は「同じものを食べても環境によって味わいが大きく変わる」という話に続く。そうだよね。僕らは食べ物を食べてるようで、実際にはかなりその場の空気や雰囲気を食ってる。ぶっきらぼうなおばさんがホールに立ってる町中華で食うチャーハンはテーブルがベタベタだとなおさら旨いが、高い金出してくる食うフレンチでウェイターがベタベタしてたら美味しいものも美味しめない。だから誰と食べるのかも大事になってくる。大切な人との食事にはなるべくサラサラで臨もう。

 

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www.senchado.jp

 

 

足元にも及ばない

   2020/09/01
 レンズ交換するだけなのに10日かかると言われた。でも驚いたのはそこではなく、眼鏡屋さんが「これで少し歩いてみてください。気持ち悪くないですか?」なんて聞くからだ。実際気持ち悪かったし、自分の一歩に意識を向けたのはひどく久しぶりだったからだ。それをなんだか気持ち悪く思ったからだ。


 自分の足元を見なくても、なんとなくで歩けるようになったのはいつからだろう。街へ出る。出来たばかりの何かを喰らう。また街を歩く。ああ、トーリクンコの匂いがキツい。逆さま世界を順に見る。ふと目に入る名画座の受付係。あの人の観る映画はきっといつも途中から。緊張と緩和を繰り返す信号機の赤。心配りで用意された『盲人用』の押しボタンに盲人は気づけるか。余計なことばかり視神経を刺激する。なのに肝心の足元への意識が覚束ない。見なくても問題なく歩けると言うには僕らは小指を角にぶつけすぎる。坂本九には悪いがもう少し下も見ていいのではないか。それは自分の身体に意識を向けるということでもあるからだ。


 話は小難しい方向へ。脳が社会と結びつくならば、身体と結びつくのは自然である。社会人という言葉もあるくらいだから、大人とは脳の存在と言ってしまってよいだろう。だとしたら子供は身体の存在ということになる。それから、社会とは予測可能・数値化可能な世界のことだ。そこでは身体性は徹底的に排除される。非合理的で予測不可能だからだ。つまり、妊娠・出産する女性や子供は社会にとって不都合な存在ということになる。非合理的で予測不可能だからだ。そしてこれこそが性格差や子育ての困難さの本質である。と、以上、養老孟司の考える身体性の問題である。ふむ、正直納得できるけど、そんなのヤダ。僕らにはやっぱり身体性が必要だ。じゃあどうすればいいのかって。だから、下を向いて歩こう。気持ち悪いけど。

 

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一貫性不要論

   2020/08/31 
 一貫性ってなんだろうとつくづく思う。恋愛がうまくいかないのはいつだって慣性の法則を信じすぎたときだ。この前は好きって言ってくれてたじゃないか!って。私がケアベアを好きだったのは12年も前の話よ?って。だからお互いにとって新鮮で魅力的な状態を保ち続けるような、会うたびに気持ちを更新するような努力が大切であって、実際上手くいってるカップルはそこら辺をなおざりにしてないんだろう。でも、別に好きじゃなくなったっていいわけじゃん。昨日まで好きだったものを今日疎ましくて仕方なく感じることもある。実は慣性の法則に基づいて疑うことを怠っていたのは、相手が自分をまだ好きでいることではなく、自分がまだ相手を好きだという気持ちだったりもする。
 つまり、一貫性なんてものは必要ないってことだ。もし、僕たちが過去に囚われ続けて生きるならば、今日の選択は全て過去によって決定されることになる。それでもまだ僕たちには自由意思があると言えるのか。だからそうじゃない。僕たちはついさっき口走った発言を気持ちよく撤回しながら生きていくことが出来る。過去に囚われず前に進むことが出来る。だからこれからがこれまでを決めることが出来る。だからこそこの瞬間の選択ひとつひとつを自らの手で頭で選んでいくことに何事にも代え難い尊さが宿るのだ。さればこそ、今日もあなたが好きです。その一言が嬉しくて嬉しくて仕方ないのだ。明日も良い日になりますようにと祈りたくなるのだ。古きを温ね新しきを知ることが重要なのだ。こうやってついつい熱く語りたくなってしまうほどに、僕たちのそれぞれの瞬間が自らの選択で手繰り寄せる美しい未来への可能性で煌々と輝いているのだ、って、思わないとやってらんないじゃん?人生ゲームのオープンカーのハンドルを他人に握らせてたまるかって。あんな簡単に乗ってる人落ちちゃうのに。

 

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夏にまつわる蚊とコロナ

  2020/08/30
 ここ最近、夏を誇り切るような入道雲が遠くの空にいつも浮かんでいて、体の中で太陽が燦々とするのを感じる。夏は心のトーンを上げてくれる。最高だ。最高なのに、そんな夏はもう直ぐ終わっちまう。どうせならせめて、夏が終わる前に一度でいいからあの雲の峰までまっすぐに歩いて行きたい、と思うには僕の性格は帰り道の心配をし過ぎるけれど。

 夏は太陽の季節だ。今年は特にそう言い切ってしまうに何ら差し支えない気候に恵まれたのやら憎まれたのやら。下手に日差されれば、死ぬ。そして今年の夏をさらにややこしくしているのは間違いなくあれのせいであれを付けてるせい。まったく、この話題にはもうとっくにアキ(ダブルミーニング)が来ている。とはいえ、夏こそこの話題が相応しいとも言える。なぜって、例のウイルス、名前の由来が王冠(クラウン)。古代ギリシャ語では勝利を祝って首からかける花輪飾りをコローナと呼んでいたのだそうだ。これと由来を同じくするものがもう一つある。それは太陽の外層大気の最も外側にある、絶対温度100万ケルビン (K) を超える希薄なガスの層。そう、太陽コロナである。

 太陽の熱エネルギーって改めて考えると本当にすごい。中でも太陽コロナの部分が特に温度が高いらしい。この熱さなら燃えないゴミも燃えるゴミになるな。ちなみにウイルスの方のコロナは37度では1日経っても死なないそうだ。37度じゃ僕ら1日で骸になれますぜ。代わりと言ってはなんだが、37度が当たり前の世界になって姿を消したやつがいる。お気づきだろうか。耳元でブンブンとうるさいあいつ。そう、読んで字の如く、蚊だ。あいつらを媒介としたデング熱なるものが流行したこともあった。というか、蚊は太古から常に感染病の元凶であり続けたのだ。それがいなくなると思えば、この熱さも少しはマシに思えて来ねえな〜!全っ然!

 

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初めてのネイル

  2020/08/29
 最近、はじめてのネイルをやってみたので、そのレビューをしたいと思う。ちなみに、当方23歳・男性・身長177cm・体重68kg、ホグワーツならレイブンクロー、ポケモンなら7番目のジムを守っていそうなタイプである。そうそう、塗ったのは足だ。

 いきなり実感の話からしていくが、も〜とにかく毎日が楽しくてしょうがない。え、なんかウキウキする…なんでだろ…あー!足が可愛い〜!!となるのだ。ほんとに。まだネイルをしている状況に慣れていないことも相まって、ネイルちゃんが目に入るたびにちょっとびっくりかなりハピネスしちゃうのである。そして気づいた「多少ヤなことあっても自分爪可愛いしと思えるから全然大丈夫」というあの、ネイルしたらとりまこれ言っとけみたいなあの!あの都市伝説は完全ノーダウトガチ中のガチだったいやはや関暁夫もくりびつ!

 お次が塗ったときの話。色はダークでマットな紫とメタリックな金、左足小指から順に金紫素紫素、金素素金紫、って感じ。ベースコートやらトップコートやら初めて聞くわりにすんなり意味の通じるやつも塗ってもらったから色入れてない爪もヘルスィーなツヤ感があっておおこれはもっと早くやっても良かったかもしれないと思っちゃったりして。なにより塗られてる感覚が全然ないのがびっくりだった。まあ予想できたのに全然考えてなかったからだけど。ふんわりと香るシンナーの匂いに一抹の懐かしさも感じつつ。これ、工作のときのワクワク感と一緒だ。

 最後は今後の展望の話になりまして。ゆくゆくは手にもやってみたいな。4本トップコート、1本色入れるみたいな感じがいいかな。クリムトデザインのネイルシールがあるよって彼女が教えてくれたのでそれを黒の上に重ねたりしたりなんかしちゃったとか考えちゃったりしたらもう〜!って感じです。

 

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折り紙の文脈

  2020/08/28
 バイト中、乱雑に扱われた引き出しの中から割と保存状態の良い折り紙を見つけた。となると当然「この機会にちょっと新しい折り方覚えるか」という流れになるわけで。ググるとすぐに「おりがみくらぶ」にたどり着いた。サイト名を見た途端に今まさに求めているサイトだと確信した。

 まずは当然だが何を作るのか考えることになる。当然だが僕はこういうとき彼女にプレゼントするなら、と考えるので、当然だが作るのは花だな、ということになって、季節柄も考慮し、おうむたろーず(原文ママ)を折ることになるのは至極当然。

 早速折ってみると、いやはやこれが難しい。折り方の工程表に目を通した時点で気になってはいたのだが、工程表の終盤に「ひねる」という動詞がある。 紙をひねる? イマイチピンと来ない。紙なんてほぼひねった経験がない。いやないだろ。この「ひねる」という作業の正解が分からず、次の工程に進めないという事態が発生した。

 これはつまり、「折り紙だけの文脈」というものが存在するということだ。きっとこの「ひねる」という動詞は、折り紙に慣れ親しんだ者たちからすれば、ツウと言えばカアとなるような、ごく普通の表現なのだ。それが外の世界からやってきた者からすると分からない。読み解く文脈を持ち合わせていないから。言葉の限界を感じた瞬間である。文脈を読む力は自らの手や足を動かしてやってみないことには身につかない。折り紙を通じてそれを再確認することになった。

 ちなみに、無事ろーずは完成した(YouTubeって素敵)。完成したろーずを見た彼女はきっと「綺麗」と言ってくれるだろう。まあ実際には「これどうやって折ったの?」と聞かれる方が嬉しかったりするから人の心は魚心に水心とはいかないものだねというのはまた別の話。

 

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400字詰め原稿用紙2枚分の日々の思い煩いです

 

 

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汗と涙のための散文

赤ちゃんはただ「幸せだから」笑ってるらしいと、人から聞いたと糸井重里が言っていた。

だったら泣いてるのもただ「悲しいから」なんだろう。

僕らはいつから泣くことに理由が必要になってしまったのか。

最近読んだ本の一説にこう書いてあった。

 


人間の身体は泣くように設計されている。

人間の身体をデザインされた存在を讃え、

その作品のひとつである己の身体を讃えて、

当初の意図どおりに肉体を使いこなすことは、

我々の義務の一つである。


だから、ぐっとこらえるなどというのは、

弱い者のすることなのだと。

 


とはいえ、やはり「悲しいから」といってそう簡単には泣けなくなってしまった僕たち。

理由さえあれば今にも泣き出したいのに、理由さえ手に入れられず、もしかしたらそのことにすら自分で気づけず、胸をきゅっとして生きてる人が少なくないだろうことを想う。


「泣いていいんだよ」

人の赦しがあれば少しは違うだろうか。