最近気になった言葉
自分が気持ちいいことと、期待に応える自分を気持ちよく感じることは違います。
スプツニ子!さんの言葉。人の役に立つことを嬉しく思えるならそれに越したことないんだろうけど、まずは嬉しく思う自分自身がどうなのかっていう。自分の気持ちよさ、心地よさが基準にないと、誰のために生きてるんだかわからなくなってしまう。っていう。
「ブス」と「かわいい」、呪いと呪(まじな)い、その中性的な部分を人生をかけて獲得していく。この世にブスはない。どこにもない。ぜっったいにない。ちなみに劣化もない。全盛期もない。あるのは進化だけだ。ブスは思考だ。いつだって今のあなたが、私が、いっっっっっっちばん美しい。絶対だ。
橋本愛は雑誌『POPEYE』でコラムの連載を持っていて、彼女の感性がすばらしいことは読めばすぐにわかる。この文章もそう。
彼女は「桐島、部活やめるってよ」の頃にブレイクして、当時は美少女と持て囃された。
その後になって、作品でいうと「寄生獣」の頃かな、
劣化した、と言われている時期があった。
知っている人もいるだろうか。
それが彼女にとって、なんてこともないとるに足らぬことであったことは間違いない
彼女はそんな言葉に惑わされるほど弱くない。
ただ、それをバネにできるほどには強くなかった。
「リトル・フォレスト」という作品に1年かけて携わり、東北の農業生活に実際に身を投じる中で得たものは大きかったと本人も語っている。
現在も日々映画音楽本舞台と様々なカルチャーに触れながら自分の中の思考や思想、感覚に言葉を与えていく作業を続けている。
彼女は、自分のたどり着いた境地を僕たちにも教えてくれている。
私は私の世界で一番可愛いに決まってるじゃん
これも少し似てる。「相対化」の世界に疲れて、人と比べ比べられることにうんざりした僕らに絶対を教えてくれる。
「女の子」「かわいい」「女」「綺麗」「若く見える」「メイクが上手」
女性が日々社会から要求される美の押し付けを男は永遠に知らない
お金について考えることは、どう生きるか、未来をどうするかを考えること
お金稼ぎの話や大金持ちに対する刷り込まれた「汚い」って感覚は、
どうやら士農工商の時代に、お金を稼ぐ商人よりも武士の地位を上げるため、お金は汚いものという感覚を民衆に植え付けた所に由来するらしい。
実際には人はお金がないと何もできないし、生きていくためにお金を稼ぐことは誰でもやっていること。
もっと言えばお金を稼ぐために、わざわざ大変な苦労をする必要は全くない。
「我慢」を美徳とする人たちは、「我慢」しない人たちを非難するけれど、
「がんばる」という言葉には、「やりたくないことを無理にやっている」というニュアンスが含まれている
「我慢」も「頑張り」もお金を稼ぐための必要条件ではない。
みんなが楽できるならそれに越したことはない。
やりたいことして生きていけばいい
そんな簡単な話じゃないって言う奴がいても、それでも理想を追わなければ理想には近づけない。目指してやっぱり同じところにいるのと、最初から何もせず同じところにいるのは全く違う。足踏みした跡は足元に残る
愛されなくてわかること・愛せなくてわかることがあるのと同じように、愛してわかること・愛されてわかることも確実にあるんだよねぇ
これは本当に天才だと思った。
人を好きになって、愛して、愛されて、けどそれを笑う人たちに何と言えばいいんだろうと思っていた。
宮沢賢治の大好きな詩の一節にこうある
もう決定した そつちへ行くな
これらはみんなただしくない
いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
発散して酸えたひかりの澱だ
ちひさな自分を劃(くぎ)ることのできない
この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
もしも正しいねがひに燃えて
じぶんとひとと万象といつしょに
至上福祉にいたろうとする
それをある宗教情操とするならば
そのねがひから砕けまたは疲れ
じぶんとそれからたつたもうひとつのたましひと
完全そして永久にどこまでもいつしょに行かうとする
この変態を恋愛といふ
そしてどこまでもその方向では
決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
むりにもごまかし求め得ようとする
この傾向を性慾といふ
一人の人を愛するというのは諦めである。
悪いことじゃない、でも諦めなんだと
そんなずっと頭の片隅にもたげていたもやもやが
愛することへのなんとも言えぬ罪悪の霧が
晴れていく感じがした
愛する怖さを超えて生きたいですね