祈り〜ノートルダム大聖堂の軌道
「ノートルダム大聖堂が燃えてる」
という事実だけがまだ寝呆けていた耳に飛び込んできた。そっかー、残念。といった感じ。
昨日はいつもより早く眠りに就いたのに、今朝はやけに体が重かった。寝覚めも悪く、本日もスロースタート見切り発車で出発進行。
うとうとしてちゃんとテレビを見ていなかったので、
“ノートルダム大聖堂で火災”
“ロンドンにある”(後にパリにあると知る)
“向こうは現地時間で深夜1時過ぎ”
“涙を流し抱き合う人々がいた”
という断片的な事実しか入ってこなかった。
あまり気にならなかった反面、それら断片はぼんやり頭の中で反芻されていた。おかげでハンカチと時計を忘れ、駅に向かう途中で一旦取りに帰る。
無事予定通りの電車に乗る。
改めて事態を確認しようという気になりTwitterを開く。
大聖堂に向けて、ロンドン市民がアベマリアを歌っていることを知る。
急に悲しく、切なく、怖く、悔しく、苦しくなる。
人には「存在が支えになる」対象があると思う。
大切な人や尊敬する人であったり、忘れられない場所であったり、思い出の品だったり。
「神」への信仰もその中の1つ。でも人種性別国籍を問わずみんなが共通して信じ、頼り、心の支えにできる点、各人にあるそれぞれの「支え」とはその性質を異にする。
だから、「宗教」には力がある。
それが良い方向に作用したことも悪い方向に作用したこともあったのは歴史の知るところ。
奇しくも日本では後者であったことが多く、結果として「宗教」への無関心や偏った見方が強くなってしまったようで残念に思う。
以前は「無宗教者」=「信念のない者」「悪」「ヤバイやつ」といった強迫観念的な価値観があったようで、
https://www.cnn.co.jp/usa/35135718.html
今では海外でも無宗教論者は増えてきたようだけど、それでもやはり向こうでは信仰する宗教があるというのがordinaryなことであるのには変わりない。
日本人は無宗教者が多いというわりに宗教イベントが多いし、
向こうで無宗教者でいることは、必ずしも「宗教を必要としない生き方」という意味では捉えられない。
結局は神を信じようが信じまいが、
重要なのは自分の中に信念(譲れないもの、ここだけは曲げちゃいけないというもの、軸)があるかどうかの問題なのか
とにかくそこに祈りがあった。
そして彼らの祈りの対象が今目の前で焼け落ちている。
テレビスマホの向こう側の知らない人たちの悲しみを自分ごとのように感じるための事実としては十分だった。
それは「支え」としてのノートルダム大聖堂が自分の中にもあるということだし、祈りの軌道が物理的な距離を無視して僕まで弧を描いたということ。
共鳴とか繋がったとか言えば聞こえ良いがそんな綺麗なものではない。
「宗教」には力があると言ったが、
それは「祈り」に力があるからだ。
目的地到着。
あ、そうか。と今になって気づく。
今朝の目覚めの悪さ、身体の重さ。
悲しい祈りが弧を描く。