adieu - ”旅立ち”
私はパリの白い虎?小さな素朴な好奇心?やばすぎる。
こんな詩的な表現、やばすぎる。
やばすぎて、久しぶりにブログに書いておくことにした。
◎柳瀬二郎 コメント
“旅立ち”は現実逃避の先にある現実を知りはじめた人間or人間以外の何かの歌でございます。
曲は、“旅”という言葉の持つ広大なイメージが存分に活かされて、朝日を浴びるように朗らかに始まる。汚れた雲もなんのその、彼女のモラトリアムは期待や希望で満ち満ちている。
が、2番からは少しずつトーンが落ちていき、遂にちっぽけな日暮れを迎える。そんな私はパリの白い虎。小さな素朴な好奇心…。あれ?1番ではたしか、私は川を流れていて、虎は台所にいて…。私は虎?虎は私?
そう、
これは現実世界のアドベンチャーではなく、密やかな脳内アバンチュールなのだ。
メロディに当てる字足らず・字余りのバランスが絶妙。書きたい詩を音数で妥協することはせず、音への乗せ方とそれを心地よく響かせるadieuの声とで解消させている。
というか、adieuの声の持つ、強烈な可視光線のような輝きと力強さは一体全体なんなのだろう。歌詞は、発された次の瞬間には過去のものになる。もっと言えば、音楽というもの自体が本来は一過性の瞬間芸術である。adieuの声はそのことを思い出させる。
adieuの声は最初からノスタルジーを帯びている。
ある人にとってこの“旅”とは“恋”であり、“夢”であり、彼女にとっては“現実逃避”である。それは誰しもが考えたことのある「たられば」の類いであり、でも日々を暮らすための原動力であったりする。だから、この曲は“旅”を否定しない。むしろその“旅”を心地よく受け止めている。しかし、その“旅”を続けることまでをも良しとはしない。そろそろ現実を見て、大人にならなければ、と。
でも、どうやらまだ口笛を吹くくらいの余裕は残っていて…。いつかは“旅”からの「旅立ち」を果たせたらいいのに。そんな風にして、日暮れはまた新しい朝日へと続いていくのだ。