753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

「JUNO ジュノ」に“普通”は似合わない、そのままでいい。

映画なんだから、現実に対してこのくらいシャレが効いてていい。そしてこのくらいのシャレは効くものだから、この映画は現実的だ。


物事には表裏があって、あっちから見るのとこっちから見るのとじゃ大違い、というのは映画の見せ方としては基本中の基本なのだから、この映画は単にブラックユーモアたっぷりに世の中を見てる16歳の女の子からの視点なだけであって、結局それは僕らの世界そのものだ。

 


ジュノは序盤からずっと揺れている。

“セックスしてからたぶん2ヶ月と4日です

確かじゃないですけど”


というセリフが上手い。

全部が大切なような全部面倒くさいような何者かになりたいような今のままでいいような、そういうアイデンティティ確立期だからこその揺れは冒頭からずっとあって、そこに妊娠という外部的で内在的な要因が作用していく。妊娠に対して多少冷徹に見せるのも、ユーモラスに振る舞い続けるのも、“妊娠した自分”と客観的に向き合うための距離感を測りあぐねているだけで、彼女は最初から真剣だと思う。「まだ子供だから」と思うのはこちらの勝手な決めつけに過ぎない。

 


さらに言えば、彼女の出すべき結論はかなり序盤から決まっていた。ブリーカーの


“君なりの方法でやって”


というセリフがそのなによりの証拠だ。彼はあの時点でジュノのありのままを受け入れる準備が整っていた。口論になったときにブリーカーがジュノに対して「まだ君は子供だ」と言うのも、そのあと実はブリーカーの方は「僕も言い過ぎた」なんて謝ったりしてないのも(笑)、ジュノがいかに妊娠を通じて精神的に成熟し、自分を見つめることができたのかを物語っている。ジュノは最後になって、やっとブリーカーだけが


“私のお腹じゃなく顔を見てくれる”


と気づいたわけだ。

 

 

そしてもう一点、この映画が好きだったのは、誰も傷つけない描き方をしているところだ。養父母の関係は破綻したものの、必ずしもどちらが悪いとは言えないし、どちらも悪者にはしていない。最初は神経質で“やりすぎ”感のあった養母ヴァネッサにも純粋な子供への愛を見出し、ジュノの継母であるグレンから


“新米ママ 今は何もかもが怖い”


と言葉をかけてあげる。

傷つけられたのは超音波検査師ぐらいだろう。