753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

あいの降るほし

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橋本愛からは重みを感じる。それは動きからもだし、内面からも。

今の彼女からそれを感じるのはもちろんだけど、当時16歳のまだまだ少女といえる若さの彼女からも同様にそれを感じた。それは発売当時に見ていたら同じように感じたかと言われれば違うのかもしれないけど、少なくとも現在から7年の時を遡って見たときに、まだ年齢の鎧を纏う前の、まだまだ身軽で軽やかなはずの彼女の中に、その時点ですでに重みが存在することが見て取れた。

 

外見上は重みは別に感じられない。むしろ細いくて軽そう。けど、重い。

少し跳ねて映る彼女の遅れ足が地面から少し離れたところからもぎこちなさとは違う、いわば慎重ともいえる動きの重さがある。

 

1万字インタビューにもすごく彼女らしさが詰まってた。

読み進めていると、ほんとうに内面を丁寧に象った言葉選びが上手くて、一瞬これに答えている彼女がまだ16歳だってことを忘れた。思い出してから驚いた。これは高校1年生から語られる質量の言葉ではない。小学生の頃の自分の性格に大きな影響を与えた出来事についてのエピソードも語られている。エコロケーション習得の瞬間。彼女は人より早い段階で他者の存在を理解して、社会と自分との距離感とか、自分の居場所とか立ち位置を考えるようになったんだろうなあ。

 

最近、POPEYEでの彼女のコラム連載が終わってしまった。むっちゃ悲しい。

今はインスタでしか彼女の書く文章が読めない。むっちゃ惜しい。

 

「ブス」と「かわいい」、呪いと呪(まじな」い、その中性的な部分を人生をかけて獲得していく。この世にブスはない。どこにもない。ぜっったいにない。ちなみに劣化もない。全盛期もない。あるのは進化だけだ。ブスは思考だ。いつだって今のあなたが、私が、いっっっっっっちばん美しい。絶対だ。

 

最近の研究によると、人が人になり得るその瞬間に、私たちの初めての行動があるという。それは、「ここにいるよ!」と、メッセージ物質なるものを母へ、母の体へ発しているというのだ。その「ここにいるよ!」が番組特有の表現だったとしても、私たちが初めて発した言葉なるものがあまりにも情けなくて、頼りなくて、愛おしくて、確かなものだったから、不覚にも私は泣いてしまった。

(POPEYE内連載コラム「橋本愛のカルチャー日記」より)

 

次はさ、本の装丁とか写真の配置とか、どこで撮るとか、何を撮るとか、何を着るとか、何と撮るのか、誰と撮るとか、そういうの全部自分で決めたやつ作ってよ。よろしく。