753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

倫理学A+

「あなたの倫理観は正常ですか?」

いきなりレポートに飛ぶ

 

そもそも倫理って言われてピンとくるものもないのだけれど、

それでもこう言われると、なんだかドキッとする。

掴めないけれど、掴まれるような

倫理にはそういうところがある。

 

それを専門に研究する学問、名付けて倫理学

そのほか似たような学問分野に、哲学と法哲学がある

3つも出てきたら余計わかりづらいか

例を出して説明しよう

 

例えば、

Q.「なぜ人を殺してはいけないのか?」

という問いに対して、

 

自分なりの答えを考えるのが哲学であり、

正しい社会に求められる答えを考えるのが法哲学

(だから哲学は一人一人のもので、法哲学はみんなのもの)

そしてその中間、

自分の出した答えと社会の出した答えの間でどう折り合いをつけるか

それを考えるのが倫理学、といった感じ。

 

 

倫理観とか道徳観と言われるようなものは普段特に話題に上がるわけでもないし、

人と比べられるようなものでもないのに、

いざ人が倫理や道徳に反する行為をすると、集中砲火のように一斉射撃を喰らわせる人たちがいる。さながら袋叩き。最近よく見るよね。あれなんなんだろね。人のこと悪く言えるほどあんたら偉いのか?

倫理観を疑うわ。(笑)

 

 

社会でもまだ答えが出せてない問題がたくさんある。

自分の結論と社会の結論との折り合いをつけないといけないのに

社会の方でまだ結論が出ていない。

倫理観なんてふわふわしていていいのだ。

 

 

攻撃してくるあの人たちの中ではきっと自分の答えがそのまま社会の答えになっている

だから倫理や道徳なんていう雲みたいな存在に掴めた気になっている

自分の行いになんの疑問も持たずに平気で人を叩ける

(本人たちは正してると思ってるんだろうな)

 

 

なんでこんな倫理の話を知ってる風に語っておるのかと言いますと、、

 

高2の冬に受けた倫理学の授業がめちゃめちゃ面白くて、

ちゃんと授業聞いてちゃんとレポート書いたらちゃんとA+が来た。

 

ジブリ映画とか宮沢賢治の本とか、有名な作品を例として示しながら、倫理にまつわる考え方や脳の働きなんかをわかりやすく説明してくれる授業で、

細かい内容についてはまたの機会に少しずつ書いていこうと思うんだけども、

多分何回か引用することになると思うので、

当時提出したミニレポートを掲載しておく。

いずれ引用されたときに読んで頂いてもいいので、今はここで終わりでもいいです

(雑想ランデブーという試みを続けていく上で、自分の中で避けては通れない部分)

著作権俺にあるよね?(笑)多分大丈夫。

 

 

 

タイトルを読むとお分かりかと思うが、リトル・フォレストを見たことがないとちょっときつい内容。

amazon prime会員なら無料で見れるのでぜひ見てほしい。

 

正直この映画が好きすぎてレポートの題材にした節があるし、みんなにも見てほしくてわざわざブログに載せてる節もある。 

節々にこだわらなければ是非映画を見てレポートも読んでみてほしい

(ちなみに原作コミックスも面白いよ)

 

「リトル・フォレストに見る倫理学

 

 ここまでの講義の中で、近代以降の社会の倫理的問題は特殊(この私)と普遍(ここにない、憧れのもの)との問題であり、我々はその特殊と普遍との間でどう理想的な距離感を測るか、すなわち、どこに個(現実)を捉えるのかを自分自身に問うているということがわかった。また、人間は複合的存在であり、身体性・理念性・共感性が距離感を測るために利用されているという話があり、さらにそれに関連して、不思議感覚と不条理感覚、男と女における3つの領域の関係が詳述された。今回は、森淳一「リトル・フォレスト 夏/秋・冬/春」(2014・2015)を題材に、個(現実)について、さらには3つの領域について確認、考察しながら、普遍を目指す思考について考えてみたい。
 いち子は、小森という東北の山間の小さな村で自給自足の生活を送る若者で、昔「東京」に出て行ったが帰ってきた過去を持つ。いち子は、毎年同じ時期に同じものを作るサイクルを素直に受け入れられず、このままこの地に身を据えていいのかと思い悩む。しかし、同じ村に住んでいて同じく「東京」から出戻りした過去のあるユウ太に「大事なことから目をそらしている」と言われたこと、親友キッコから「いち子は他人と向き合ってこなかった」と指摘されたこと、そして失踪した母からの手紙に書いてあった「人生は同じところを廻るようで、実は円ではなく螺旋状である」という言葉をきっかけに、もう一度上京を決心、実行する。最後には結婚相手と共に小森へと再び戻り、この地で暮らす覚悟を決める。
 講義の中でも「東京」とは普遍のことであるという話があった通り、いち子とユウ太は普遍に襲われ個に目覚めた結果、東京行きを決めた。今自分のいる「田舎」と「東京」の間の、物理的な、感覚的な距離感をどう詰めていくのか、という問いに対して二人は普遍へと近づくことを選んだのだ。だが、行くも行かないもその人の自由である。それがその人の生き方であり、その人の倫理だ。この点はさして問題ではないと思う。
 ここで特筆すべき、講義での中島みゆき吉幾三の例と違う点は、二人とも東京、すなわち普遍に行き着いた、あるいは近づいたのち、自らの地元、田舎に帰ってきていることだ。では彼らは普遍を見誤ったのか。彼らにとって東京は憧れの場所ではなかったのか。いや、そうではない。東京は、確かに彼らを個に目覚めさせ、普遍へと呼び込んだ。彼らは、普遍に接近した後で、新たな普遍に襲われたのだ。普遍へと誘われるのは、一つには、人がそこに安定を求めるからであるが、より安定していたのは、普遍という一つのものを求めていたその状態であることもあるのではなかろうか。もしくは、普遍が到達することのできない境地であるがために、いたちごっこのように延々追求し続けなければならないということもあるだろう。どちらにせよ、普遍がこれほどまでに捉えがたいものであるがために、人は個(現実)を据えかね、彼らのとった出戻りのような行為に至らせるのであろう。
 さらに興味深いことに、二人が帰ってくることを決めた理由が真逆と言っていいほどに異なっている。いち子が、自らは「逃げてきた」と思っているのとは対照的に、ユウ太は、「小森と東京では話されている言葉が違う」、「自分で責任持って話せるのは、自分自身の体で実際にやったことと、その中で感じたこと考えたことぐらい」、「他人が作ったものを右から左へ流すだけの薄っぺらでからっぽな言葉にはうんざり」、「他人に殺させといて、殺し方に文句つけるような人生は送りたくない」などと述べ、自分で望んで帰ってきたと言う。いち子について考えると、彼女が逃げ帰ってきた理由はただ単に彼女が自らの身を故郷に据えるのか、東京に据えるのか決めかねているからだと思われる。つまりは、彼女は共感性を中心とした女脳(=Fタイプ)的な村の閉鎖的暮らしに煩わしさを感じていたにもかかわらず、理念性を中心とした男脳(=Mタイプ)的な東京の環境にも上手く順応することができず、どちらを選択するのかの決断を迫られ、その結果として帰郷を選んだということである。彼女にとって田舎も東京もさして変わらないのだ。では、ユウ太はというと、彼はそんな理念性の世界に空虚さを感じて明確に小森を選択した。この違いがどこから生まれたのかについては、今回は深く突っ込まないでおくことにする。ここで問題にしたいのは、東京が空虚さを感じさせてしまう理由である。
 上京を歌う歌などでよく歌われているキーワードとして、「東京は冷たい」というイメージがあるが、これについてTwitterで面白い投稿を発見した。Verusなるアカウント主が、「『東京は冷たい』っておかしいだろ、お前らが冷たくなってんだよ」と投稿していたのだ。ここでお前らと言われているのは、おそらく地方出身者のことであると思われる。これが的を得た指摘であるとすれば、東京の空虚さにもある程度の説明がつけられる。彼らは共感性の発達した地方の規模の小さいコミュニティから、上京してきて東京の住人となる。そして空虚さを自らも発するようになる。大きく二つの要因が考えられる。一つはもちろん、都会が理念性中心の世界であるということである。そしてもう一つは、普遍に近づいたことによる、普遍を追い求める心の喪失である。本来であれば、普遍は一度個(現実)に目覚めたが最後、追い求めることを避けられないのだが、東京の物質的充足が新たな普遍への接触を妨げてしまうのではないだろうか。普遍が追い求められなくなると、個(現実)は特殊と普遍の間の存在であるため、不安定になる。個(現実)を見出すために東京にやってきたものが、そこで実際には個(現実)を失ってしまうのだ。
 普遍との距離感の測り方や個(現実)の据え方は、田舎と東京どちらに住むかに絞って言っても、どちらを選ぶかはその人の自由であるように、決まった答えは用意されていない。そのため、いち子やユウ太にとって東京は普遍への通り道でしかなかった。しかし、東京の空虚さもそこに住む人たちからすればとても心地よいものなのかもしれない。その人にとっての最良の距離感を見つけることができれば、幸福なことであろう。自分が男脳か女脳かで向き不向きを判断するのも一つである。ここで忘れてはならないことは、先述した通り、普遍は到達しえない境地であるので、常にそれを目指すことを求められながらも、どこかで折り合いをつけなければならないということだ。いち子は二度の上京を経験し、小森で暮らすことを決断したのちも、なお晴れやかな表情ではなかった。今の幸福も結局今現在の幸福でしかないというような形で物語はエンディングを迎える。普遍への憧れは消えることはない。その道程は堂々巡りに思えるかもしれないが、きっと螺旋状に上昇していく確かなものなのだろう。

 

要約

  • この私という「特殊」な存在は、常にここにない憧れである「普遍」を目指していて、その狭間で現実を捉えあぐねている
  • 人間は複合的存在であり、身体性・理念性・共感性が距離感を測るために利用されている
  • 3つの領域には男脳と女脳が関係している
  • 男脳はMタイプと呼ばれ、理念性を中心としている
  • 女脳はFタイプと呼ばれ、共感性を中心としている
  • どちらも傾向であって必ずしも男性だから男脳というわけではなく、そのバランスはいわばグラデーションである