753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

足元にも及ばない

   2020/09/01
 レンズ交換するだけなのに10日かかると言われた。でも驚いたのはそこではなく、眼鏡屋さんが「これで少し歩いてみてください。気持ち悪くないですか?」なんて聞くからだ。実際気持ち悪かったし、自分の一歩に意識を向けたのはひどく久しぶりだったからだ。それをなんだか気持ち悪く思ったからだ。


 自分の足元を見なくても、なんとなくで歩けるようになったのはいつからだろう。街へ出る。出来たばかりの何かを喰らう。また街を歩く。ああ、トーリクンコの匂いがキツい。逆さま世界を順に見る。ふと目に入る名画座の受付係。あの人の観る映画はきっといつも途中から。緊張と緩和を繰り返す信号機の赤。心配りで用意された『盲人用』の押しボタンに盲人は気づけるか。余計なことばかり視神経を刺激する。なのに肝心の足元への意識が覚束ない。見なくても問題なく歩けると言うには僕らは小指を角にぶつけすぎる。坂本九には悪いがもう少し下も見ていいのではないか。それは自分の身体に意識を向けるということでもあるからだ。


 話は小難しい方向へ。脳が社会と結びつくならば、身体と結びつくのは自然である。社会人という言葉もあるくらいだから、大人とは脳の存在と言ってしまってよいだろう。だとしたら子供は身体の存在ということになる。それから、社会とは予測可能・数値化可能な世界のことだ。そこでは身体性は徹底的に排除される。非合理的で予測不可能だからだ。つまり、妊娠・出産する女性や子供は社会にとって不都合な存在ということになる。非合理的で予測不可能だからだ。そしてこれこそが性格差や子育ての困難さの本質である。と、以上、養老孟司の考える身体性の問題である。ふむ、正直納得できるけど、そんなのヤダ。僕らにはやっぱり身体性が必要だ。じゃあどうすればいいのかって。だから、下を向いて歩こう。気持ち悪いけど。

 

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