753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

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斎藤工初監督作品 「blank13」 

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あらすじ

葬式の日、突然家を出ていったどうしようもない父親の空白の13年が、その13年の間に知り合った参列者たちの思い出話で少しずつ分かっていく。そこで語られる父親は、自分たちが知らない父親の生き様だったーーー。

 

人の価値とはどうやって決まるのか、生きるってなんだろうかと向き合うきっかけになる映画でした。

 

 

「人の価値を、教えられた気がしたわ。」

命の優劣とか、考えてしまう。

隣でやってる同じ苗字、違う一族の葬式には参列者が大勢。こっちは空席がかなり目立つ。

死んだときに集まってくれる人の数がそのままその人の生きた価値になるわけではないけども、そういうふうに考えてしまう心は誰にでもあるんじゃないかと思う。

そうは考えたくないなと思うほどに、人が数字にこだわって生きていることを痛感する。

前回の記事で人の信用がクラウドファンディングを使って簡単に数値化されてしまうという話をしたけれど、そこに包含される危険性みたいなものがここでは如実に表れていて、戦死者一人一人に家族がいるけれど政治の世界では死んだ数千人の中の数字でしかない、みたいな、まるで人の生き死にを百点満点で採点しているようで薄気味悪い。

 

 

「僕も、父のことは大嫌いです。でも、少し、好きな気もします。いや正直、よく、わかりません。でも、今は、悲しい気もします。」

次男役の高橋一生が喪主挨拶で言う。

(てか出演者超豪華。斎藤工、人望あるんだなあ。)

このセリフがほんとによかった。

ちゃんと100パーセントで嫌いになれたらきっともっと楽なんだろうけど、そんな簡単に割り切れる感情じゃないよなあ。

 

時間が解決する。というのは、そのうち慣れるとか、忘れるとか、鈍くなるとかっていうんじゃなくて、近過ぎて見えなかったものが、離れたことでよく見えるようになる感覚に近い。それは今考えることを放棄するというよりは、闇鍋みたいに複雑な感情全部同じ器にぶち込んで弱火でじっくりと煮込むのに近くて、一言で言えば熟成。考えていないようで考えている。考えているようで考えていない。

 

総評

家族の話だから、たぶんこれは誰でも当てはまる映画。

不思議な線で繋がってしまっている家族だから、余計に憎悪したり崇拝したりするんだけど、どう転んでもなんか許されるんじゃないかって感じがする。

それが家族の良いところなのかもしれない。まあ悪いところなのかもしれない

そういう映画でした。

劇中音楽のない映画が好きな人、シリアスとコメディごちゃ混ぜ系が好きな人にはオススメ。

革命のファンファーレ

やっと読み終わった~~

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多分去年の11月から読んでた。笑

内容が面白くないとか飽きるとかではなく、

むしろ面白すぎて、タメになりすぎて、

少し読み進める度にタメになった事をすぐに活かせない自分が歯がゆくて読めなくなるっていう、、笑

 

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兎にも角にも、読む前と後じゃ世の中の見え方が全然違うわけで。

本当に面白かった。勉強にもなった。

 



特にありがたかったのが、

今まで自分の中にあって、上手く言葉にできなかった部分を言語化してくれたこと

それと、

“お金”というものの存在価値を、ある意味否定し、ある意味高めてくれたこと。

 

言語化

前者については特にはじめにの部分で語られた、親世代との「働く」ということへの常識の違いの説明が分かりやすかった。

昔は仕事には我慢やストレスがつきものであったのが、今はそれらの仕事からAIに取って代わられる。だから自分の好きなことを仕事にしないといけなくなったんだ、と。

 

“お金”

後者については、キミの才能を殺したくなければ、お金の正体を正確に捉えろや、後半の章で詳しく説明してくれている。

お金は生きていく上で切っても切れないものなのに、学校ではその増やし方や扱い方を全く教えてくれない、と。そしてそれは教師たちがただ真面目に教職課程を修了させ、社会に出てお金を稼いだことのない人たちだからで、そんな人たちがお金のことがわかっているはずがない、と。

じゃあお金とはなんなのか?

西野氏はそれを信用を数値化したものであると言う。

そして信用をお金とする装置こそがクラウドファンディングである、と。

詳細は是非読んでみてほしい。

とにかく目から鱗だった。

 

読後感

この本さえ手に取らなければもっとひたむきに勉強に打ち込めていたかもしれないけど、やはり勉強一辺倒で頭でっかちな人間ではいけないと自分は思う。

遠回りかもしれないけど、脱線しながら、あらゆるものを吸収しながら進んでいく方がいい。やってみないとわからないのに道を1つに絞ってしまうのはもったいないし危険

 

読みながら自分を肯定も否定もすることになった本だったけど、

読まないと考えずに知らんぷりしていた部分もあったなと思う。

読んで悩むか、読まずに悩むか。

 

さて、どっちにしよう。

本の紹介だけでも読んでおいた方が?笑

読んだ後、最後の1タップをするかしないか

それで何かが変わるか変わらないか

 

 

ただ、押さなきゃ何も変わらない

ってことで

読んでみること、是非オススメしたい。

エンジョイ

ここ数日どうやって考えたら全てを楽しむことができるか考えてた

 

なぜなら不安とストレスがすごいから。

 

不安の解消法については

『禅とジブリ』を読むのが1番早い。

だから具体的な不安はない

ただ漠然とした不安がすごい。なんだこれ。嫌なんだけど。

 

ストレスについては発散法が迷走し始めた。

今まではゲーム(ほぼウイイレ)をやることが手っ取り早いし一人で解決できるから優れていたんだけど、一定期間やってると純粋に楽しい期から勝ちにこだわる期に移行して、やがてスランプ期がやってくるというサイクルが通常化して、安定してストレス発散に使えなくなってきた。

 

まあ、なんでストレスを感じるんだろうと。

 

そして気づいた

全部楽しかったらストレスあるわけないじゃん!!と。

そこで冒頭の物思いに至る。

 

結論

から言うと、

朝生まれて夜死ぬものだと思うことにした

今日しかないからね、楽しむしかない

 

例えば今日なら、

朝クッソ眠かったけど母とあさチャン見ながら皮肉言うの楽しかったし、

お昼にリンガーハットピリ辛ちゃんぽん食べながらスパイダーマン2見て胸熱くするの楽しかったし、

そういえば今日の夜賀来賢人から会釈してもらえた(ガチ)のは当然楽しかったし、

帰りの電車に揺られる今も踊Foot Worksの新譜のおかげで死ぬほど楽しい。

バイト中そういえばもう1年働いてるのか〜お茶淹れとか来客対応、電話対応かなり上手くなったな〜と考え始めてからもかなり楽しくなった。(今朝生まれたはずなのに、、!)

 

あとここ最近ですごい影響を受けたのは

茨木のり子詩集 (岩波文庫)

の中の『さくら』という詩

〈死は常態〉?

〈生はいとしき蜃気楼〉??

いきなり意味わかったら天才だと思う

そして意味わかったら茨木のり子を天才だと思うと思う

 

 

映画『摩天楼(ニューヨーク)はバラ色に』

マイケル・J・フォックスが最初はただのメール係なのに、挨拶だけはすごい爽やかにしてて、ああーもう、これじゃんこれだけは疎かにしちゃいけないんじゃんと思って21年の浪費を憎く思った。

なんとか今から元気なご挨拶を手に入れたい。なんとか。

 

まとめると

  • 楽しむ
  • 無理しない
  • 笑顔と挨拶
  • 朝生まれ夜死ぬ

というのが、当面は心がけていこうと思ったやつです。ハードだ!

 

影響受けた本がもう一冊あるけど読み終わってないので今度紹介。

 

楽しんでこうぜ〜〜

(小学生みたい)(てかへぼい記事だな)

遊具とコマと地球と、人生の共通点

なんて大げさなものではないですが。

ただ、

昔から回転するものが好きだった。


小さい頃は遊具にあるただひたすらぐるぐる回るだけのやつをただひたすらぐるぐる回していたし、小学校に上がってからも毎日がエブリデイのようにコマ回しに勤しんだ。空中コマ回しの練習中(懐かしい響きだ)友達の手元狂わせたコマが飛来しておでこに命中し流血事故を起こしたこともあったがその日も止血もそこそこに懲りずにぶん回し続けていたのを覚えている。

(脱線するが、この事故にまつわるエピソードを2つ

・当時界隈ではドュクシを駆使した実戦訓練の果てに死に果てたフリをするというのが流行っていて、コマが命中したときも(まさに命に中るといった感じで)僕はーまさか流血しているとはつゆ知らずー死んだフリをした。コマを滑らせた少年兵も模擬戦で死亡者が出るとは思ってなかったろうが、そこはやはり少年兵(小学校でいうと2年生)なので、本当に俺が逝っちまったと思ったようでひどく泣いていた。慟哭とはあれのことを言うんだろうなあ。

・僕はジョン・マクレーンではないので、デコッパチから血垂れ流しっぱなしってわけにもいかず、確か先生に連れられてすぐに保健室に行った(先生が連れてこられるまで死んだフリを続ける歴史的名演技)。そこで驚いたことには、保健室にはたまたま保健室の先生と話し込んでいたミス校長先生がいらして、僕はミス校長先生に治療をしていただいた。よく泣かないね~なんて言っていただいたと思うのだが、自分では一度も流血を目にしていないので泣きようがなかった。それよりも、ミス校長先生に癒していただいているということにただただ畏れ多く感服していた。校長先生というのは、言うなれば一国の女王で、たかが一少年兵としては、、(もうこれはいいか)。けどほんとに、右も左もわからない年齢でも校長が上なのはなんとなくわかっていて、大変ありがたく思ったものである。

 


話を戻して。

 


ふと、最近回しているものはあるだろうかと思った。

とりあえず、大2の頃にハンドスピナーをやったのは記憶にある。当時はまだ日本ではあまり知られておらず、かなりのサキドリだった。ほどなくしてズボンのポッケに入れたまま洗濯機でぐるぐるして2ダメにした。回るものが回るものに弱いのはコマ回し時代からの教訓であったのに。。。

 


さてそのあとはどうか。最近は何か回していたか。検索範囲をAfter2019-01-01に設定、脳内ぐるぐるリフレイン。

。。

。。。

。。。。

そういえば、回転に惹き込まれるのはどうしてなんだろか。当時は考えたこともなかった。今浮かんだのは、回転している時の動きの滑らかさと、しっかりと軸があるあの感じ。軸があるおかげで周辺はその周りを心置きなくぐるぐるできる。遠心力はちょうど台風みたいに矢印を外側に湾曲させながら伸ばしていって、反発した勢いがバランスを取り合って気持ちよく回る。


日本には四季があるおかげで、赤道直下の国々や、日の沈まない地域よりかは一年の流れを感じられる。それでもぐるぐる一年365日、結局は同じような日々の繰り返し。

これも回転だったわけだ。


最近は特に回してるものはありません。

とりあえず生きてます。

ことばのライブラリ

どこから拾ってきたのかも忘れたここ最近の言葉収集の記録

 

日々是好日

ーー雲門和尚

 


過ぎ去れるを追い念うこと勿れ、未だ来らぬを待ち設けること勿れ。過去は過ぎ去り、未来は未だ来らざればなり。ただ現在の法を観よ。うごかず、たじろがず、それを知りて、ただ育てよ。今日なすべきことをなせ

ーー釈迦 「中阿含経」より

 


過ぎ去った過去は、すでに捨てられたものであり、未来は未だ至らざるものである。であるから、何があっても動揺することなく、今ここにおいて自分を見極めて、「今、ここ」で何をすべきかということを見失ってはならないのです。人間は生き物である以上、いつどうなるかわかりません。いつ死んでしまうかもしれません。この「常なるものは無い」という無常な現実を目の前にしたならば、1日1日への臨み方も変わってくるのです。「今ここで何をしていくべきか?」ーこのことを日々全うしていくことができれば、そこに悪日はありません。毎日は好日でしかないのです。

また、夏の風物詩である「幽霊画」も、ゾクっと背筋が凍るようなひとときとともに迷える私たちに、同じことをメッセージとして届けくれます。

風に揺れている黒く長い髪の毛は、「後ろ髪を引かれる」というように過去への囚われ。「恨めしや」と前に垂らした手は、未来への執着。ふと足下を見てみると、地に足がついていません。過去や未来にばかり気をとられ、肝心な「今、ここ」に心が置かれていないのです。この不気味な姿をみて、私たちは今、まさに目の前のことを大切にしなくてはならないことに気づかされるのです。

ーー龍雲寺住職 細川晋輔

 


異形を恐れるは己の無知ゆえ

ーー光月おでん

 


もしもあなたが本の中で心から共鳴できる誰かと出会ったら、それは、自分の外側ではなく、内側に友達を作ったということです。

ーー作家 森絵都

 


幸福とは、幸福を問題にしない時をいう

ーー芥川龍之介

 


女を悪く云う男の大部分は或る一人の女の悪口を云って居るのである

ーー仏の文人 グールモン(堀口大学訳)

 


地域での活動の入り口には、「正しさ」ではなく「楽しさ」が必要なのです。

ーー山崎亮 「週刊医学界新聞」3月25日号より

 


自己の権利が蹂躙されるならば、その権利の目的物が侵されるだけではなく己れの人格までもが脅かされるのである。権利のために戦うことは自身のみならず国家・社会に対する義務であり、ひいては法の生成・発展に貢献するのだ

ーーイェーリング

 


他人の不幸を否認することでしか自身の幸福を確認できないのは寂しい

ーー弁護士 南和行

 


世の中で最も危険な思想は、悪じゃなく、正義だ。悪には罪悪感という歯止めがあるが、正義には歯止めなんかない。だからいくらでも暴走する。過去に起きた戦争や大量虐殺も、たいていの場合、それが正義だと信じた連中の暴走が起こしたものだ

ーー山本弘『翼を持つ少女』より

 


古いものを壊すことは、過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!人が生きて、死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!新しいものばかり飛びついて、歴史を顧みない君たちに、未来などあるか!少数者の意見を聞こうとしない君たちに、民主主義を語る資格はない!

ーー風間俊 「コクリコ坂から」より

 

 

ぼくのおなかでいきててね

 


人生の切断面

 


颯颯と箒でまとめられ

 


あきめくらは集って

眠たげにコーヒーをすすり

鍬をかつぎ

一羽の鳩も飛ばさない

三文手品師の一行に

故なく花を投げたりする

 

風景画ですが、自画像を描いてきたつもりです。

 


既に彼らとは違う生物になってしまいました。

 


そんなつもりじゃなかったというか、どんなつもりでもなかったんだけど、なんだ、まあ、ともかく、明日の予定は決まったわけだ

 


手作業で季節を切り替える

 


街全体の雰囲気の新旧感は別として、建物や構造物を一点一点見ていると、それぞれが作られた年代がばらばらで重層的なことに気づくときがある。夜空の星座の隣り合った二つの点がじつは全然違う距離にあり、この奥行きのことを考えて途方もない気分になるのに少し似ている。

 


きれい、ってシャッターを押したときの想いごと写ってる気がして、うれしい写真

 


自らに与えられた芸術家としての使命を全うしようとする、1人の人間の発する夥しい熱量

祈り〜ノートルダム大聖堂の軌道

ノートルダム大聖堂が燃えてる」


という事実だけがまだ寝呆けていた耳に飛び込んできた。そっかー、残念。といった感じ。

昨日はいつもより早く眠りに就いたのに、今朝はやけに体が重かった。寝覚めも悪く、本日もスロースタート見切り発車で出発進行。


うとうとしてちゃんとテレビを見ていなかったので、

ノートルダム大聖堂で火災”

“ロンドンにある”(後にパリにあると知る)

“向こうは現地時間で深夜1時過ぎ”

“涙を流し抱き合う人々がいた”

という断片的な事実しか入ってこなかった。

あまり気にならなかった反面、それら断片はぼんやり頭の中で反芻されていた。おかげでハンカチと時計を忘れ、駅に向かう途中で一旦取りに帰る。


無事予定通りの電車に乗る。

改めて事態を確認しようという気になりTwitterを開く。

大聖堂に向けて、ロンドン市民がアベマリアを歌っていることを知る。

急に悲しく、切なく、怖く、悔しく、苦しくなる。

 

 

人には「存在が支えになる」対象があると思う。

大切な人や尊敬する人であったり、忘れられない場所であったり、思い出の品だったり。

「神」への信仰もその中の1つ。でも人種性別国籍を問わずみんなが共通して信じ、頼り、心の支えにできる点、各人にあるそれぞれの「支え」とはその性質を異にする。

だから、「宗教」には力がある。

それが良い方向に作用したことも悪い方向に作用したこともあったのは歴史の知るところ。

奇しくも日本では後者であったことが多く、結果として「宗教」への無関心や偏った見方が強くなってしまったようで残念に思う。


以前は「無宗教者」=「信念のない者」「悪」「ヤバイやつ」といった強迫観念的な価値観があったようで、

https://www.cnn.co.jp/usa/35135718.html

今では海外でも無宗教論者は増えてきたようだけど、それでもやはり向こうでは信仰する宗教があるというのがordinaryなことであるのには変わりない。

日本人は無宗教者が多いというわりに宗教イベントが多いし、

向こうで無宗教者でいることは、必ずしも「宗教を必要としない生き方」という意味では捉えられない。

結局は神を信じようが信じまいが、

重要なのは自分の中に信念(譲れないもの、ここだけは曲げちゃいけないというもの、軸)があるかどうかの問題なのか

 

 

とにかくそこに祈りがあった。

そして彼らの祈りの対象が今目の前で焼け落ちている。

テレビスマホの向こう側の知らない人たちの悲しみを自分ごとのように感じるための事実としては十分だった。


それは「支え」としてのノートルダム大聖堂が自分の中にもあるということだし、祈りの軌道が物理的な距離を無視して僕まで弧を描いたということ。

共鳴とか繋がったとか言えば聞こえ良いがそんな綺麗なものではない。

 

 

「宗教」には力があると言ったが、

それは「祈り」に力があるからだ。

 

 

目的地到着。

あ、そうか。と今になって気づく。

今朝の目覚めの悪さ、身体の重さ。

悲しい祈りが弧を描く。

イッツ・ギンザ・トーキョー

銀座が好きだ

 

お高くとまった人、外連味なくお洒落な人、若い頃からずっと来てるのであろうベテラン着物マダム、青くて黄色いシティボーイズにシティガールズ、、、

誰しも一度は歩いたことがある銀座大通り、高級ブランドが立ち並び金色の輝きギンギラギンにさりげなく。雰囲気はファビュラスでゴージャスでラグジュアリー。

でも、1本、いや2本(ここはさすがGINZA)路地に潜り入れば下町風情漂わせた居心地のよ~い親しみやす〜い一面を見せる。ここらにはグルメな店が溢れてる。最近の銀座は庶民に優しいコスパランチの宝庫でもある。そんな2面性のある銀座が好きだ。

 

大通りを歩いていても、自分みたいな中ぐらいの人間は目立つことはない。雑多な人混みに紛れ、背景に溶ける。少しくらいスキップしても気づかれないんじゃないか?というほど。銀座という街は、一見よそ者を寄せ付けない敷居の高さを感じさせつつも、一度足を踏み入れたものには決して冷たくしたりなどせず、来るものを拒まない寛大さを持った街でもある。そんな気高く懐の深さのある銀座が好きだ。

 

“多様性の街”というと渋谷を思い浮かべる人も多いか。しかし包容力では銀座も負けていない。なにせここは歴史が違うのだ。この街は何十年も首都・東京の中心地として君臨してきた実力と実績とがある。

論より証拠、

原宿 ベース・ヤード・トーキョー

表参道 RAW TOKYO

芝公園 東京タワーに浅草 東京スカイツリー

アイデンティティーの確立のため、東京の名を冠してその力に頼ろうとするところは多い。

 

しかし、銀座は違う。

銀座には銀座自体が持つブランドがある。

ギンザブランドがある。

例を挙げればピンからキリまで。枚挙にいとまがないキリがない。

さらに言えばだ、

銀座スカイラウンジ

Book Tea Bed 銀座店

銀座キャピタルホテル

お前らは銀座にねえだろ!!!!!

それでも銀座の名を欲してしまうのだ。

東京ではなく、銀座の名を借りたくなるのだ。

それこそが銀座の覇王色、銀座が銀座たる所以である。

GINZAである。

そんなオリジナリティとスペシャリティのある銀座が好きだ。

 

 

今回はそういう話。