753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

レミーのおいしいレストラン

イーゴの名評論

全文書き起こしてみた

 いきなり全文見るなら こちら

 

あの映画すごい。って改めて思った。

 

最近久しぶりに見た。昔は週に8回見たこともあったし、視聴回数ランキングでいえばカリオストロ、バックトゥザフューチャーに次いで3番目にくるくらい見てる。

なにより話が最高なんだもの。

(この先若干ネタバレあるので注意)

 

ディズニーピクサーらしいファニーな感じもちゃんとあって、メッセージ性も強い。っていうかこの映画マジでメッセージ性が強い。

ネズミが料理人を目指す時点で本当はおかしいのに、それがあまりおかしくならないように工夫しながら絶妙に夢を見させてくれる。

「自分を信じる」

「諦めなければ、夢は叶う」

ありきたりなメッセージなんだけど、ネズミが料理するっていう設定がおかしい分メッセージの方はスッと入ってくる。

レミーは途中で迷うんだよ、

「父親の前ではネズミのフリ、キッチンでは人間のフリ、自分は一体何者なんだろう」って。

(まあ普通に考えてネズミ)

料理人になる夢を諦めたくない

未来を信じたい

これは

まさに今ここにいる自分という存在とここにない理想との間で現実を捉えきれてない状態。

誰もが一度は経験する、「自分はなんで生きているんだろう」って不思議感覚や、「なんで自分は〇〇にはなれないのか」って不条理感覚。

オラこんな村いやだあ、東京へ出るだあ。

 

そしてレミーは家族と料理の狭間で、

料理人という理想を求めて死を選んでいる

死だ。ここから彼にとって料理人というものがどれだけ大きな夢だったのかがわかる。

理想に近づけない自分の存在の軽さ。

いや、むしろ死ぬことは理想に近づくための手段に近かった。

 

宮沢賢治の作品に「よだかの星」というのがある。星になろうとしたよだかがぐんぐんと上を目指し遂には星になる話。

でもよだかが本当に星になれたのか、空気の薄さで命を落とすそのほんの一瞬、星になった気になれたのか。それはよだかにしてみたらほとんど同じだったのかもしれない。

 

古文でやった胡蝶の夢も同じ。

夢から覚めた自分は蝶の夢を見たのか。

はたまた自分というのは蝶の夢の中なのか。

 

レミーもその究極を求めたのである。

生半可な気持ちでできることじゃない。

鳥肌が立つ。

 

幸いレミー九死に一生を得る。

これ想いが通じたと言うほかない。

 

ここもまた気に入ってる部分なのだが、

料理人として成功を収めるかのように見せて、実際には現実がいいことばかりじゃないことをちゃんと教えてくれる。

結果的にこれで良かったと思わせるラストだが、最高のハッピーエンドにしなかったところは、おとなも納得できる最高のエンディングだと評価できると思う。

 

またイーゴの最後の評論が、良い。

ネットを探しても見つからなかったので、

吹き替え版のセリフを全文文字にしてみた。

文字にするとより名言であることがわかる。

 

評論家とは気楽な稼業だ。危険を犯すこともなく、料理人たちの必死の努力の結晶に、審判を下すだけでよい。辛口な評論は、書くのも読むのも楽しいし、商売になる。だが、評論家には、苦々しい真実がつきまとう。たとえ評論家にはこけ降ろされ、三流品と呼ばれたとしても、料理自体の方が、評論より意味がある。

しかし、時に評論家も冒険する。その冒険とは、新しい才能を見つけ、守ること。世間は往往にして新しい才能や創造物に冷たい。新人には味方が必要だ。昨夜、私は新しいものに巡り合った。思いもよらない作り手による素晴らしい料理を味わえたのだ。作品も、その作者も、美味しい料理についての私の先入観を大きく覆した。これは決して大袈裟な表現ではない。まさに衝撃だった。かつて私は、「誰にでも料理はできる」という、グストーシェフの有名なモットーを嘲笑った。でも、ようやく彼の言いたかったことがわかった気がする。誰もが偉大な芸術家になれるわけではないが、誰が偉大な芸術家になってもおかしくはない。グストーのレストランの新しいシェフは、恵まれた環境に生まれ育ってはいない。だが、料理の腕において、フランスで彼の右に出るものはいまい。近いうちにまた訪ねるとしよう。今度はもっとお腹を空かせて。

 

ん〜、優れた文章は芸術である。

 

どうしてもディズニーランドでレミーが見たい。

アトラクションになって欲しいなあ。

見たいよね、ネズミのレミー🐭

あー。

ネズミね。

 

ね。