カメラ
デジタルカメラってどうやって目の前の景色を写真にしているんだろう。
世の中にはこういう使ってるけど構造はよくわからないというものが多い。
フィルムのカメラは分かる。
キーワードは露光と現像。
シャッターが切られたその瞬間にフィルムが陽の光を浴びて像が焼きつく。あとからそれを現像液という特殊な液体(この液体が、使えば使うほど新鮮な状態を保てるというまじで特殊な液体)(だからフィルムの現像を今でも取り扱ってる店はほとんどないってわけ)(ちなみに現像するならおすすめはカメラのみなみや)につけるとあら不思議撮った画像が浮かび上がるって寸法。
けどよく考えたら目の前の景色がフィルムに焼きつくというのもよく分からない話だ。
写真に写った景色と、そのとき自分の目に焼き付けた景色とが同じなのってもしかして超偶然なのではと思ったりする。
まあとにかく、カメラは「ここだ!」と思った瞬間を切り取ることができる思い出増幅装置であることは間違いない。
昔からよく写真を撮ってきた。
中学生の頃から出かけるときはデジカメを必ず持ち歩いた。
記録しなければこの日々は失われていくんじゃないかという焦りや不安があった。
それにこの日々はいつか振り返らたくなった時に、もう一度前を向くための力になると信じていた。
必ず財産になると確信していた。
そして今ではその場にいることを認められる一種の通行手形の役割も果たしている。
カメラマンがいて困ることはまずない。
カメラさえ持っていれば口数が少なかろうが多少嫌われていようが求められる存在であることは揺らがない。
存在価値を確保する。思えばそういうところが昔からあるのかもしれない。
デジタルカメラとフィルムカメラ、どちらが好きかと言われればフィルムカメラかもしれない。
撮れる枚数に限りがあるところ。
すぐにどんな写真が撮れたか分からないところ。
まあ、カメラロールは12000枚。
人体実験 753号室
当初はブログ名をこれにしようと思っていた。
派手なことはあまりできないけど、日々小さな実験を続けていく好奇心は持っていよう、という気持ちで。
結局なんか違うな、となって雑想ランデブーにした。
ご興味があれば詳しくはこちら。
zassou-rendez-vous.hatenablog.com
なんだかんだで
このブログを始めて半年が経過したらしい。
早いもんだ。
このブログに対する更新姿勢はのらりくらりの最たるものなので、現在記事数が50いかないくらい。ん、4日に1回は更新している計算になるな笑
実際には最初の一ヶ月だけハイペースで更新していたがその後はちらほらなので、こういうところに平均値の怖さが出ているほらほら中央値とか数学でやったやつ。
奇妙なことに(?)最近はほぼ毎日10回は閲覧されている当ブログ。
全然更新していないのに見に来る人がいるということは、特定の記事が検索にヒットしているか、
zassou-rendez-vous.hatenablog.com
(これとか?)
それかありえんコアなファンがいるか、のどちらかであるが僕はうぬぼれと過信がすごいので後者だと確信している。
これからも応援よろしく(なんの)
どういうこと書いて欲しいかのご要望お待ちしております。(これはマジ)
最近のあれこれ
人間は誰しも意外な一面を持っている
なんてことは言われなくてもみんなわかっている。
けどみんな一人の人間に1つの役割や、キャラクターを求めてるよな〜 と、思う。
気に食わん。
「人間」と「複雑」はほとんど同じ意味だと思う。
誰だって相田みつをを知っているし、みんな年に数回はユーモアのある返しや何かの根拠として「人間だもの」を引用する。それなのに。
この、
人間だから
という全人類に共通する前提を全人類は軽視していると思う。
だって、
そんな筋の通った一貫性のある人間いるわけないじゃん!
普段厳しく他人に一貫性を求めて、少しでも矛盾挙動があろうものなら
「あの人には失望した」
「そんなことする人だとは思わなかった」
「アイドルはうんこしないと思ってた、、」
「ダニエル・ラドクリフがマジックを馬鹿にした悪役やってる、、、」
とか言ってる人たちだって、他人に厳しく一貫性を求めるという行為自体、めちゃくちゃフラグだし、
ていうか実際そんな筋通し一貫人間いたら全然魅力感じないと思う
カタブツすぎるとか言われて失望されるのがオチだ。
そもそも大切なことは星の王子様や米津玄師が言うように、言葉にならなかったり目に見えなかったりするのが常なので、鮮血の軽薄な赤色を丁寧に覆い隠した薄茶の皮一枚眼球越しに凸ったところで何かがわかるもんか。
近づくほど見えなくなるのがマジックの基本です。
「今日渋谷で飲める人いる?」旨のつぶやき
この手のつぶやきに対しては、長い間
「はいはい遊び慣れてますアピね乙事主〜」
という姿勢を貫いてきた。
これは明らかに、渋谷にいることをマウントに使えると思っている首都圏住まい(首都を除く)の者による犯行である。
そう、ダセエのである。そう思ってきた。
しかし裏を返せば、この人ら、すごく可愛げがあるのかもしれないと思えるようになってきた。
彼らの思考は
「ウェーイ渋谷来てるンゴJAPAN!」
というより、
「せっかくかの渋谷大魔境まで馳せ参じているんでやんすから骨の髄までしゃぶりつかないと勿体無いでやんすできればかの地で共に夢の時間を過ごす盟友がいて欲しいでやんす」
に近いのかもしれないと思ったから。
、的な。
そもそもパティピーというのは孤独耐性のない精神的に未熟な人たちなんじゃないか?と思うようになった。
毎晩のように群れをなし、チームプレーを繰り返すのは一人じゃサンを救えないしダンクの1つもできやしないからだ。
なんとも可愛いじゃないか。眠れぬ夜も多かろう。
そういう発言の質が間違えてモロの君じゃなくて猩々に育てられたサン並みに周回遅れの友人のつぶやきを目にすると、ソクラティックな問答の末自らの至らなさに気づかせてあげたいなあとお節介おじさんしたくなるのだが、おじさんもそこまで暇じゃないので泣きながらバスケがしたいですとか言われても困るのです。
社会の発展に必要なのは個々人の教養や啓蒙活動よりもバカがバカやってても他の人が迷惑被らずに豊かに暮らせるような制度的保障なのかも。
まとわり
2019年、なとぅ。照り焼いてくる日差し。
ほんの十数分チャリ漕いだだけで感じる着衣水泳わず?みたいなビッチョリ感と、平坦な道を一人ノーブレーキ&猛スピードで走りながら思わず口ずさんだ夏色に、ああこの季節が遂にやってきたのだなとグサグサに感じてる。
この暑さじゃheatした僕らのislandは東京砂漠不可避だし駐車場の猫は焦げるどころか蒸発してしまうだろう。浮かれている場合ではない。
でも君に見せたいものがあるのは確かなので、まとわりついてくる夏なんてきよきよしい顔でスルーしてそこまで泳ぎ切ってみせるぜ。
まとまり
最近はまとまった文章を書いていない。
なぜならまとまった文章を書くまとまった時間がないからだ。
しかし無性にまとまった文章を書きたくなるときはよくある。
これはきっと、一度まとまった文章を書く喜びを知ってしまった以上、まとまった文章を書く欲望からは逃げられないということなのだとおもう。
まとまった文章を書きたい欲求は断続的にやってくる(こればっかりはまとまっていない)。
テレビを見るたび、新聞を開くたび、Twitterを監視するたび、インプットされた煩雑でまとまりのない情報たちが私の脳に呼びかける
「まとめなよ」
「僕らだってまとまりたいじゃん?」
「一回だけでやめたらいいよ」
「友だちもみんなやってるよ」
「すごく気持ちよくなれるよ」
「ストレス溜まってるんじゃない?」
こんな風に呼びかけられてしまったらもうダメ、絶対とか言ってられないのだ私だって人間なんだいくら至上福祉にいたろうとしたって結構彼女とラブいしウイイレを2試合までと思っていてもついつい4試合やってしまうし自己顕示欲つおいから新しくお茶を中心に自分の趣味をひけらかすインスタアカウントを開設してしまうし、
コチラからどうぞ753.4 the good of 🍵☕️✒️📎 (@chakramamekra) • Instagram photos and videos
全然煩悩のまとまりである。欲しいものもたくさんある。
https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/4ORN0UYP8JZH?ref_=wl_share
どうやら私はまとまったパンドラの匣をまとめて開けてしまったようだし、まとまり依存症なのかもしれない。まとまり専門外来があればそこに行くのが早いだろうがこの病はまだ多分そこまで認知されていない(認知脳科学のことではない)ので最近梅雨の疲れが溜まってきて体もだるいし行きつけの鍼灸院に行くことにするあとで予約しよ。
肝心のこの文章にはまとまりがないのだが、
まとまった文章を書く時間はないという話をしているのだから一応筋は通っている。
筋ではなくまとまりが欲しい。
しかし奇しくも、ちょうど自分が義理とか筋は通すけれど、団体行動とかまとまって動くのを好まないのと同じような構図になっていておかしい。
人間としてはちゃんとまとまってるのかも。
でもやっぱりこの文章にはまとまりがない。
抽象化桃太郎 前編
過去も現在も未来も同様に意識の作用でしかないとはいえ、いわゆる万人の共通認識では遥かな過去の話として、少なくともここではない具体性を欠いたところに、生きていることより死んでいることが親和的になった性染色体XXのヒト(以下:X)とXYのヒト(以下:Y)がいました。
Xはなんらかの要因により地面が隆起し標高の高くなったところへ小枝やソダと呼ばれるものを刈りに、Yは絶え間なく水流れるところへ衣服を洗って汚れを落とし綺麗にしに行きました。
Yが絶え間なく水が流れるところで衣服を洗って汚れを落とし綺麗にしていると、どんぶらこっこどんぶらこと、絶え間なく水が流れるところの上方から大きなバラ科モモ族の落葉小高木の果実が流れてきました。
Yはそのバラ科モモ族の落葉小高木の果実を人が住むための建物に持ち帰りました。
バラ科モモ族の落葉小高木の果実を食べようと割ったところ、バラ科モモ族の落葉小高木の果実の中から元気なまだ生きていることと親和的な性染色体XXのヒト(以下:XX)が飛び出しました。
まだ生きていることと親和的なヒトがいなかったX、Yは大変喜んで、バラ科モモ族の落葉小高木の果実から生まれたXXに桃太郎と名付け、大事に育てました。
大きく成長した桃太郎は、鬼ヶ島へ日本の妖怪と考えられている、伝説上の存在の一種退治に行くことになりました。
つづく
好きなとこから、好きなように、意味もなく。
実世界でもTwitter上でもなんでも、
「よく知らないけどなんか好き」という状況がたまにある。
ちゃんと知ればもっと好きになるかもしれないけど、むしろ深く知ってしまったら嫌いなところ出てきて好きじゃなくなるかもしれない。
「よく知らないからこそ好き」なのかもしれないと思うと、こういう好きがあってもいいよなと思う。
お互いにそういう距離感を守りながら、お互いに好きでいれるなら、それもれっきとした両想いだと思う。
もし自分にもそういう人がいて、今も僕をよく知らないまま僕を好きでいてくれてるなら、どうかそのまま、その距離感のままで、どうかこれからも見守っていてほしいなと思う。
無理に接近しないでいいから、好きな場所から好きなように好きでいてほしい。
あー、
どっかで聞いた
前進するのも、その場に留まるのも、どちらも行動力である、という話を思い出した。
とりあえずやってみるのも、
リスクを潰し切ってから信じて突き進むのも、
どちらも行動力。
考えているところを行動として見せる、
こういうこと考えました、をやってみたのうちに入れることで、「すぐに行動できない自分」を否定するのではなく、「よく考えてから行動することのできる自分」を肯定できる、という話だったな。
近頃は何も生み出さない人を無価値な人間だと言いたがる言いたがり屋さんが多いから、生産性とか効率とか、機械に向けて使ってた言葉を一体全体どういうわけか人間に対しても用いるようになった。
公園で非生産的に大声を出したり、非効率的に穴を掘る子供達を見て、彼らから学ぶことなく、逆に彼らを早く機械にしなきゃと慌てふためく。何もしなくても人間は#bornperfectなのに。
話が逸れた。
まあ、要は、人を好けという話。
今いる場所で。行動せずに。意味もなく。
2019/06/28 雑想
多分自分は全てのタスクを同じ比重にしておかないと回らないようになっている。
そうか、書いてて気づいた。これだ。
明日から取り掛かろう。
どんなに大きいタスクも毎日続けられるレベルのタスクに細分化して割り振ればいいんだ。いきなり漠然とした巨大なものに取り掛かろうとしたらそりゃ億劫になったりやる気が削がれたりただただ不安に襲われたりするわけだ。
そうなってくると、モノを言うのは経験だな。
大きいタスクが必ずしも量的細分化に適したものでない場合、例えばレポートみたいな、書き上げるだけじゃなくて質も求められるような場合に、それをいかに毎日のタスクとして細分化して振り分けていくか。これは経験によるしかない。できるかな。億劫になったりやる気が削がれたりただただ不安に襲われたりしそうだ。
あいの降るほし
橋本愛からは重みを感じる。それは動きからもだし、内面からも。
今の彼女からそれを感じるのはもちろんだけど、当時16歳のまだまだ少女といえる若さの彼女からも同様にそれを感じた。それは発売当時に見ていたら同じように感じたかと言われれば違うのかもしれないけど、少なくとも現在から7年の時を遡って見たときに、まだ年齢の鎧を纏う前の、まだまだ身軽で軽やかなはずの彼女の中に、その時点ですでに重みが存在することが見て取れた。
外見上は重みは別に感じられない。むしろ細いくて軽そう。けど、重い。
少し跳ねて映る彼女の遅れ足が地面から少し離れたところからもぎこちなさとは違う、いわば慎重ともいえる動きの重さがある。
1万字インタビューにもすごく彼女らしさが詰まってた。
読み進めていると、ほんとうに内面を丁寧に象った言葉選びが上手くて、一瞬これに答えている彼女がまだ16歳だってことを忘れた。思い出してから驚いた。これは高校1年生から語られる質量の言葉ではない。小学生の頃の自分の性格に大きな影響を与えた出来事についてのエピソードも語られている。エコロケーション習得の瞬間。彼女は人より早い段階で他者の存在を理解して、社会と自分との距離感とか、自分の居場所とか立ち位置を考えるようになったんだろうなあ。
最近、POPEYEでの彼女のコラム連載が終わってしまった。むっちゃ悲しい。
今はインスタでしか彼女の書く文章が読めない。むっちゃ惜しい。
「ブス」と「かわいい」、呪いと呪(まじな」い、その中性的な部分を人生をかけて獲得していく。この世にブスはない。どこにもない。ぜっったいにない。ちなみに劣化もない。全盛期もない。あるのは進化だけだ。ブスは思考だ。いつだって今のあなたが、私が、いっっっっっっちばん美しい。絶対だ。
最近の研究によると、人が人になり得るその瞬間に、私たちの初めての行動があるという。それは、「ここにいるよ!」と、メッセージ物質なるものを母へ、母の体へ発しているというのだ。その「ここにいるよ!」が番組特有の表現だったとしても、私たちが初めて発した言葉なるものがあまりにも情けなくて、頼りなくて、愛おしくて、確かなものだったから、不覚にも私は泣いてしまった。
(POPEYE内連載コラム「橋本愛のカルチャー日記」より)
次はさ、本の装丁とか写真の配置とか、どこで撮るとか、何を撮るとか、何を着るとか、何と撮るのか、誰と撮るとか、そういうの全部自分で決めたやつ作ってよ。よろしく。