753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

克己のための散文

今になって、結婚してない/交際してないってすごく理想的な形だなと改めて強く思う。

 

今の自分は彼女のおかげで周りの目など全く気にしない強さを得たけど、その一方で彼女の目は常に気にしている。本当は誰の目も気にする必要なんてないのに。

 

誰かを大切に思いながら、いやいやでも自分は自分だから、と思えるだけの強さはまだ自分にはない。

 

真人間が正解とかではないと思うが、「自分とそれからたったもう一つのたましいと完全そして永久にどこまでも一緒に行こうとする、この変態を恋愛という」と言った宮沢賢治の真意が、ナイフを突き立てながら僕を問いただしている。

十分流動的思考

最近の話をしたらいいだろうか。

何だろうこれといったトピックスがあったろうか。

打っていてひとつ思い出した。

今まさに非常にキーボードが打ちやすくなっている。

それというのは先日購入したパソコンスタンドのおかげである。

下の方にURLを貼っておくことにしよう。

これは本当に便利で、久しぶりにいい買い物をしたなと思っている。

 

いい買い物といえば、

僕の買い物のほとんどをアマゾンなどのネット購入によるものなのだが、

昨日クレジットの明細を確認していて驚いたのは、

月の三分の一くらいは書籍購入代金だったことだ。

僕は死ぬほど遅読である。死ぬほどといっても死因が遅読だった例は後にも先にもないような気がするが、一応気になるので「死因百科」が欲しくなってきたな。

これもやっぱり書籍じゃないか。それにやっぱりこれも紹介のURLを下に貼っておくことにする。

 

僕はハッキリ言って紹介するのが好きだ。

もちろん自分に遥かなインフルエンス力があると盲信しているわけではなく、

あくまで参考にしたいと思ってくれた人が1人でも現れたという時に、少しでもその不便を解消したいという心配りのようなものである。

という説明はするが実際は前者も後者もないまぜになっていて自分でもその真意はよくわからなくなってきている。

習慣というものは怖い。

 

真意と死因ってちょっと響きが似てるな。

脱線した。

 

習慣といえば、最近はほぼ日のサイトを見る習慣やPinterestの覗く習慣など諸々スマホでやっていたインプットの習慣がほとんど失われてしまっている。

習慣化は僕の得意分野だが、知らないうちに習慣じゃなくするのも得意分野の一つだ。代わりにできた習慣は失われた習慣を取り戻したいなあと何となく思い続けることくらいだろうか。

時間切れ。

 

なんだこれは?と思った方はこちらを参照 

 

zassou-rendez-vous.hatenablog.com

 

 

www.makuake.com

「ウォールフラワー」を、改めて想って

これは自分がやり残したすべての話。

 

失敗を繰り返し、あとは認められるだけ。

 

それにしても神は超絶技巧でいらして。

エマ・ワトソンを創造してくださったことがあまりにもアーメン。

ハリポタシリーズがダニエル・ラドクリフにとっての最高傑作であっても、エマワトソンにとってのそれではない。この映画での彼女の輝きは魔法にかけられたよう。そしてその後も最高を更新し続けている。(ちなみに個人的にはスイス・アーミー・メンのときのダニエルがかなり良かった)

 

さあ、“はみだし者の島へようこそ”

 

無限を感じたとき、

愛を知ったとき。

夜と一つになったとき。

心に穴が空いたとき。

それが埋まったとき。

 

レストランの掲示物で時の流れをショートカットするテクニックは思わず「上手い!」と声に出してしまった。

 

魂を揺さぶった映画たち

ブレックファスト・クラブ

桐島、部活やめるってよ

シング・ストリート

キングス・オブ・サマー

ここは退屈迎えにきて

ようこそ、“ウォールフラワー”

生死の境と接触の散文

親密さが心や体への接触の賜物なのだとしたら、

触れられなかった人が死んで、何も思わないのはむしろ自然なんじゃないか。

そこに悲しみを寄せることは、傲慢なんじゃないか。

意識を際限なく拡張させる脳と、これ以上成長しないちっぽけな身体との、埋まらぬギャップ。


その点、芸能人の死はいつも空虚だ。

触れもさせず、心はいつも一方通行。

映像の世界を通じて、何事もなかったかのように存在し続ける。

それはまるで芸能が不死であることの副産物。

脳と身体の狭間を彷徨う。

ストーリー・オブ・マイライフ/私の若草物語があまりにも感動的で今年のマイベストムービーになりそう

“強い魂”

 

んん…!!
シアーシャ・ローナン&グレタ・ガーウィグの再タッグが、「レディ・バード」超えの傑作を生み出した…!!
今年の個人的No.1映画になる気がする…。

 

物語は現在と7年前を行き来しながら進む形になっていて、観る側は4姉妹たちが過去と現実とのギャップに対して折り合いをつけていく様子をシアーシャ・ローナン演じる次女・ジョーの視点から繊細に体験する。

 

この過去と現在の交錯がめちゃめちゃすごい。すごいし、上手い。
過去の記憶は、いわば“少女時代”の象徴として描かれていて、各々の悩みを孕んだ現在の生活とは対照的な印象を与える。これには過去のシーンに暖色系の色調を、現在のシーンには反対に寒色系の色調を使っていることも大きく寄与していて、過去と現在との対称性がより色濃く映し出されている。

 

そんな暖かな記憶の中の4姉妹は“家族愛”の心とそれに裏打ちされた“隣人愛”の精神とを健気に育み合い、貧しくも幸福に暮らしているわけだが、これが、本当に、演技だとは、思えないくらい、上手い。4人とも4姉妹の生まれですか?なんでこの4姉妹のごちゃごちゃとした感じが出せる?別に競い合って演じてる風でもなく、淡々と捲し立て合っている。どのセリフからも「4人でいれば怖くないよね」って聞こえてきそう。

 

その一方で、現在では“女の結婚は経済問題”というセリフに代表されるような、切実な不安や悩みが生まれ始める。そこには郷愁の思いが入り混じっていて、変わりゆく環境の中で過去とのギャップに苦しみながらも、その葛藤は万感のフィナーレへと徐々に解けていく。
過去シーンと現在シーンとの交錯が後半にいくにつれてより緻密になっていくことが観る側に自然とその心の隙間が埋まっていくのを感じさせる演出も上手い。(ただ少し複雑すぎて混乱してしまうかも?)

 

と言いつつも、兎にも角にも、
走るシアーシャ・ローナン。踊るシアーシャ・ローナン。笑うシアーシャ・ローナンシアーシャ・ローナンシアーシャ・ローナン
細かい話抜きでそれだけのために観ても十分なほどの魔力ある演技。すっごいよ。
そんなシアーシャがティモシー・シャラメと口論するシーンはこの映画のハイライトと言っても過言ではない。美と美の衝突はまるで七色の火花が弾けるよう。

 

ありふれた時間が愛しく思えたら
それは愛の仕業

僕の差別心を笑って

自分の気持ちを整理するために書いてる。

 

 差別をなくすためにできる1番のアクションは自分の差別心と向き合うことだとは思う。第一好き好んで差別してる人はそんなにいない。でも差別は何百年も前から日常に溶け込んでいて、今では自分たちでもそれに気づけない。差別のある世界に生まれた以上、差別心のない人間は一人もいない。だから差別に無関心でいる人はそれだけで加害者になる可能性がある。だからもう知らなかったで済まされなくなってきてもいる。でもだからといって人の差別心をあまり責めない方がいい。だって自分は差別なんかしないと思わないほうがいい。一つずつみんなで確認していくしかない。

 

 僕も、数年前まで家事は女の仕事だと思ってた。自分は男だから彼女を守らなければならないと思ってた。それに今でも女性が率先して料理を取り分けているのを見て何も感じない時がある。差別だと知るきっかけがなかったら今でもそれが当たり前だと思っていたと思う。

 これを読んで、「ちょっと恥ずかしいけど、自分にも心当たりある。でもしょうがないじゃん、それがおかしいことって知らなかったんだから。好きで差別してたわけじゃない。」そうやって今は少し開き直っても良いんだと思う。ごめんごめん!よくなかったわ!って言って良いんだと思う。むしろその方がいいんだと思う。もう~次から気をつけてよ?って笑ってあげられたらいいんだと思う。いくら正しくても言い方が強いとなんだこの野郎!ってなっちゃうから。そっかごめん!気をつけるわ!を増やしていけたらいいんだと思う。難しいけどね。

だからまずは自分のことから始めたらいいんだと思う、ごめんごめん!よくなかったわ!って。

散歩紀行 〜8日ぶりの外出〜

3メートル以上先でも焦点が合うなんて驚きだった。

僕は思わず世界はもしかしてとてつもなく広いのではないかと思ってしまったほどだ。

不安になって、僕は海を目指した。

道中、階段と呼ばれるものが道の両端にあって、それが道の上で連結しているところをとおった。おそらくこれが橋と呼ばれるものだろう。位置エネルギーとはまさに教科書通りのもので、摩擦力がなければ僕は中央のスロープの麓で延々立ち往生しているところだった。自分の身長幾つ分もの高さに軽々と上がってきた。中程で立ち止まり、下を見下ろす僕の後ろを、中肉中背の夫婦が通り過ぎていく。大地がかすかに揺れていた。これが地震というものか。

歩みを進める。

ふと視線を上げた空に見えた雲の峰々がはるか彼方まで続いていて、全てがどうでもよくなった。海はもうすぐそこだったが、もう帰ってしまってもいい気分になった。無理矢理思い直してあとちょっとを行く。

 

浜辺に辿り着いた。

海は恐ろしく引いていて、ところどころに潮溜まりや緑藻に纏われた岩々を露出させていた。それらを避けながら砂浜に出る。それが十分に一苦労だった。

水は屈めばキラキラと反射するが、立っていたのでは鈍色に細波を立てるだけだった。すでに陽は傾いていた。

とても静かだった。寝る前の暗い部屋で時間を知らせる規則的な機械音よりも、波打ち際で星屑みたいな砂が擦れる音の方がよほど大きいのだが、なぜかそうは感じなかった。音は障壁のない中空でほとんど分解されていた。

 

しばらく、ぼんやりとした。自分では5分くらいのつもりだったが、気付くと20分が経過していた。海風が冷たさを帯び始めなければいつまでもここにいてしまっただろう。

 

歩き始めた頃の疑念を思い出して海の向こうに目をやった。

この世界の広さは、

よく、分からなかった。

ところどころに船が見えたが、そのそれぞれの大きさをここから判然させるには何も術がなかった。

しばらく波の際を辿りながら何度も向こう側の様子を観察してみたが、特にめぼしい収穫はなかった。

 

どのくらい広いのだろう。

この海の向こう側がどうなっているのか。

確かめなければ。

行かなければ分からないことがきっとある。

 

そう、

紀行とは原初、かくあった。

 

紀行への想いを改めて。

いつか再びその想いが結実する日のために。

 

今夜からまた大籠城。