初めてのネイル
2020/08/29
最近、はじめてのネイルをやってみたので、そのレビューをしたいと思う。ちなみに、当方23歳・男性・身長177cm・体重68kg、ホグワーツならレイブンクロー、ポケモンなら7番目のジムを守っていそうなタイプである。そうそう、塗ったのは足だ。
いきなり実感の話からしていくが、も〜とにかく毎日が楽しくてしょうがない。え、なんかウキウキする…なんでだろ…あー!足が可愛い〜!!となるのだ。ほんとに。まだネイルをしている状況に慣れていないことも相まって、ネイルちゃんが目に入るたびにちょっとびっくりかなりハピネスしちゃうのである。そして気づいた「多少ヤなことあっても自分爪可愛いしと思えるから全然大丈夫」というあの、ネイルしたらとりまこれ言っとけみたいなあの!あの都市伝説は完全ノーダウトガチ中のガチだったいやはや関暁夫もくりびつ!
お次が塗ったときの話。色はダークでマットな紫とメタリックな金、左足小指から順に金紫素紫素、金素素金紫、って感じ。ベースコートやらトップコートやら初めて聞くわりにすんなり意味の通じるやつも塗ってもらったから色入れてない爪もヘルスィーなツヤ感があっておおこれはもっと早くやっても良かったかもしれないと思っちゃったりして。なにより塗られてる感覚が全然ないのがびっくりだった。まあ予想できたのに全然考えてなかったからだけど。ふんわりと香るシンナーの匂いに一抹の懐かしさも感じつつ。これ、工作のときのワクワク感と一緒だ。
最後は今後の展望の話になりまして。ゆくゆくは手にもやってみたいな。4本トップコート、1本色入れるみたいな感じがいいかな。クリムトデザインのネイルシールがあるよって彼女が教えてくれたのでそれを黒の上に重ねたりしたりなんかしちゃったとか考えちゃったりしたらもう〜!って感じです。
折り紙の文脈
2020/08/28
バイト中、乱雑に扱われた引き出しの中から割と保存状態の良い折り紙を見つけた。となると当然「この機会にちょっと新しい折り方覚えるか」という流れになるわけで。ググるとすぐに「おりがみくらぶ」にたどり着いた。サイト名を見た途端に今まさに求めているサイトだと確信した。
まずは当然だが何を作るのか考えることになる。当然だが僕はこういうとき彼女にプレゼントするなら、と考えるので、当然だが作るのは花だな、ということになって、季節柄も考慮し、おうむたろーず(原文ママ)を折ることになるのは至極当然。
早速折ってみると、いやはやこれが難しい。折り方の工程表に目を通した時点で気になってはいたのだが、工程表の終盤に「ひねる」という動詞がある。 紙をひねる? イマイチピンと来ない。紙なんてほぼひねった経験がない。いやないだろ。この「ひねる」という作業の正解が分からず、次の工程に進めないという事態が発生した。
これはつまり、「折り紙だけの文脈」というものが存在するということだ。きっとこの「ひねる」という動詞は、折り紙に慣れ親しんだ者たちからすれば、ツウと言えばカアとなるような、ごく普通の表現なのだ。それが外の世界からやってきた者からすると分からない。読み解く文脈を持ち合わせていないから。言葉の限界を感じた瞬間である。文脈を読む力は自らの手や足を動かしてやってみないことには身につかない。折り紙を通じてそれを再確認することになった。
ちなみに、無事ろーずは完成した(YouTubeって素敵)。完成したろーずを見た彼女はきっと「綺麗」と言ってくれるだろう。まあ実際には「これどうやって折ったの?」と聞かれる方が嬉しかったりするから人の心は魚心に水心とはいかないものだねというのはまた別の話。
400字詰め原稿用紙2枚分の日々の思い煩いです
汗と涙のための散文
赤ちゃんはただ「幸せだから」笑ってるらしいと、人から聞いたと糸井重里が言っていた。
だったら泣いてるのもただ「悲しいから」なんだろう。
僕らはいつから泣くことに理由が必要になってしまったのか。
最近読んだ本の一説にこう書いてあった。
人間の身体は泣くように設計されている。
人間の身体をデザインされた存在を讃え、
その作品のひとつである己の身体を讃えて、
当初の意図どおりに肉体を使いこなすことは、
我々の義務の一つである。
だから、ぐっとこらえるなどというのは、
弱い者のすることなのだと。
とはいえ、やはり「悲しいから」といってそう簡単には泣けなくなってしまった僕たち。
理由さえあれば今にも泣き出したいのに、理由さえ手に入れられず、もしかしたらそのことにすら自分で気づけず、胸をきゅっとして生きてる人が少なくないだろうことを想う。
「泣いていいんだよ」
人の赦しがあれば少しは違うだろうか。
十分流動的思考
最近の話をしたらいいだろうか。
何だろうこれといったトピックスがあったろうか。
打っていてひとつ思い出した。
今まさに非常にキーボードが打ちやすくなっている。
それというのは先日購入したパソコンスタンドのおかげである。
下の方にURLを貼っておくことにしよう。
これは本当に便利で、久しぶりにいい買い物をしたなと思っている。
いい買い物といえば、
僕の買い物のほとんどをアマゾンなどのネット購入によるものなのだが、
昨日クレジットの明細を確認していて驚いたのは、
月の三分の一くらいは書籍購入代金だったことだ。
僕は死ぬほど遅読である。死ぬほどといっても死因が遅読だった例は後にも先にもないような気がするが、一応気になるので「死因百科」が欲しくなってきたな。
これもやっぱり書籍じゃないか。それにやっぱりこれも紹介のURLを下に貼っておくことにする。
僕はハッキリ言って紹介するのが好きだ。
もちろん自分に遥かなインフルエンス力があると盲信しているわけではなく、
あくまで参考にしたいと思ってくれた人が1人でも現れたという時に、少しでもその不便を解消したいという心配りのようなものである。
という説明はするが実際は前者も後者もないまぜになっていて自分でもその真意はよくわからなくなってきている。
習慣というものは怖い。
真意と死因ってちょっと響きが似てるな。
脱線した。
習慣といえば、最近はほぼ日のサイトを見る習慣やPinterestの覗く習慣など諸々スマホでやっていたインプットの習慣がほとんど失われてしまっている。
習慣化は僕の得意分野だが、知らないうちに習慣じゃなくするのも得意分野の一つだ。代わりにできた習慣は失われた習慣を取り戻したいなあと何となく思い続けることくらいだろうか。
時間切れ。
なんだこれは?と思った方はこちらを参照
zassou-rendez-vous.hatenablog.com
「ウォールフラワー」を、改めて想って
これは自分がやり残したすべての話。
失敗を繰り返し、あとは認められるだけ。
それにしても神は超絶技巧でいらして。
エマ・ワトソンを創造してくださったことがあまりにもアーメン。
ハリポタシリーズがダニエル・ラドクリフにとっての最高傑作であっても、エマワトソンにとってのそれではない。この映画での彼女の輝きは魔法にかけられたよう。そしてその後も最高を更新し続けている。(ちなみに個人的にはスイス・アーミー・メンのときのダニエルがかなり良かった)
さあ、“はみだし者の島へようこそ”
無限を感じたとき、
愛を知ったとき。
夜と一つになったとき。
心に穴が空いたとき。
それが埋まったとき。
レストランの掲示物で時の流れをショートカットするテクニックは思わず「上手い!」と声に出してしまった。
魂を揺さぶった映画たち
ブレックファスト・クラブ
シング・ストリート
キングス・オブ・サマー
ここは退屈迎えにきて
ようこそ、“ウォールフラワー”
生死の境と接触の散文
親密さが心や体への接触の賜物なのだとしたら、
触れられなかった人が死んで、何も思わないのはむしろ自然なんじゃないか。
そこに悲しみを寄せることは、傲慢なんじゃないか。
意識を際限なく拡張させる脳と、これ以上成長しないちっぽけな身体との、埋まらぬギャップ。
その点、芸能人の死はいつも空虚だ。
触れもさせず、心はいつも一方通行。
映像の世界を通じて、何事もなかったかのように存在し続ける。
それはまるで芸能が不死であることの副産物。
脳と身体の狭間を彷徨う。