753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

内田裕也さんを偲ぶの折に改めて思ったこと 〈愛と命のロケンロール〉

内田裕也さんが亡くなったことが報じられたタイミングで、改めて娘・也哉子さんが希林さんの葬儀で語ったスピーチがテレビに流れた。そこから思ったこと。

 

途中までTwitterで書いてたのだが、重たい内容だと思われがちだし、そこまで周りの興味がないと思うので(笑)、続きはこっちで書こうと思う。

 

也哉子さんのスピーチ

希林さんの葬儀での也哉子さんのスピーチを聞くたびに、

「嗚呼、こんなに美しい関係が実在したのか」

と心揺さぶられる。

自分がなにを感じたか、感じているのか。

その1つ1つに正確に言葉を乗せていくのは、

それこそ言うは易しであるが、簡単でない

それなのに、自分の感情のその中心に、見事に言葉を的中させていく也哉子さんの言語感覚はとても繊細で、羨ましさすら覚える

それもあってか、希林さんの死は

悲しくも美しい死に映った

 

 死を謹(慎)む

人の死に温かみを感じるときがある。

それは、亡くなってからその人をより近くに感じるということもあるのではないかと思うから

(この世の森羅万象が自己の概念世界における事象にすぎないとするならば、死は人と人の越えようのない物質的な距離を越えるための手段であるのではないかとすら思う)

 

軽率なのかもしれないが、死をあまり恐れていない。

生きることをそこまで重大なことだと思っていない。

いっそ死んでしまえば楽だろうとも思うし

どうせ死ぬなら最後まで楽しもうとも思う

その昔、エピクロスが言った

「我々が存在する時 死はまだ訪れず

    死が訪れた時 我々は存在しない」

  

人が死ぬたびに、そのことに関する言動に対して不謹慎と言う人が現れるが、

そもそも人の死に対する謹(慎)みとは、

何かを控えたり、

感情を抑えたりするものなのか。

僕はそうは思わない。

死ぬまでの期間を寿命というのであれば、

それはまさに命を寿(ことほ)ぐということ。

命を全うすることはめでたいことである

その意味で謹(慎)むというのは、

亡くなった命に対する敬意や礼節、寿命を満了したことに対する労い、それら荘厳な態度

であって、必ずしもそれは別の何かを取りやめることや押し黙ることではない。と思う。

 

死の気配、予感、接近

そもそも人は死と遠い存在ではない。

いくら墓地を郊外に集めても、

誰かのボタンで首を吊っても、

見ないことでは遠ざけたことにはならない

 

意識していないかもしれないが、夏は死を近くに感じる季節である

花火の儚さを綺麗だと言ったり、

短いセミの命に美しさを感じたり、

先祖を慕って盆に踊ったり、

夏を特別に感じる人が多いのは、何かをそこに感じ取っているからではないか

死の気配、予感、接近

夏の夜が必ず美しいのはなぜか

 

『いつかは死ぬ』じゃなくて、『いつでも死ぬ』

不老不死は未だ実現せず、

死なない人間などいない

なのに人はいずれ自分も死ぬことをすぐに忘れてのうのうと生きる

でもそのことが人を愛おしい存在にする。

忘れて生きることは必ずしも悪いことではない

でも死を常にそばに考えるという生き方があっていいと思う

 

長くがんと付き合っていると、『いつかは死ぬ』じゃなくて、『いつでも死ぬ』という感覚なんです

 

希林さんの言葉が響くのは、『いつでも死ぬ』準備ができているからか

 

そんか彼女の愛した人も逝ってしまった

そういえば、

「いく」は「生く」とも「逝く」とも書くんだな

ロケンロール

 

 関連記事

 

zassou-rendez-vous.hatenablog.com