753 雑想ランデブー

映画、音楽、考えごと。カルチャーと哲学の実践的記録。でありたい。

経年劣化と雨ざらし

電車を待っていると、ホームには何本も長蛇ができているのに、男は自分1人だけだったことに気づいた。“普通”なんて言葉を使いたくはないが、他の男の人だったら普通もう少し早く気付けていたんじゃないかと思った。そんなふうに考えているうちに後ろからも蛇がやってきて、大蛇の鱗の禿げた部分みたいに自分だけが周りから浮き出た。(実際身長的にも自分だけ浮いてるんじゃないかと思うほど差があったし、だから男が自分だけということにも気づいた。)

気づくのが遅れたと思ったのは、ここ最近自分と女性との距離感についてよく考えていたから。

我が家ではあまりに当然のことであり、「どうして僕ん家だけ違うの?」なんて純粋な眼差しを母に向けるほど他の家庭に対する関心も興味もなかったから、自分が小学校に上がる頃にはほとんど父が家に帰って来ないという状況が出来上がっていたが、そのことについて何か違和感を感じることもなく、ほとんど僕は女手一つで育てられた。父はその頃から浦安にアパートを借りて仕事場兼アジトのようにして暮らしていて、年々帰宅率は減少、今では2割を切った。

 


今になって思えば、自分が小学生の頃からなんとなく感じてきた、「男はバカすぎて話にならない。女と喋ってた方が楽しい」という感覚は、どうやらここら辺の家庭事情に起因するのだろう。

 


「父が帰ってくることになるかもしれない。」

二匹目の金魚を手に入れ(前記事参照)、吉祥寺に母と移動し、バカ美味いクアトロフォルマッジが食える店に入った後少しして、母にそう言われた。

率直に言って、最初に感じたのは

「めんどくさ!」

だったが、「へぇ、あっそう」と答えた。

最近仕事場が浦安から多摩の方に変わったやら、二重生活を続ける金銭的負担やらなにやら。

家に帰ってくるのが嫌なのは父も同じらしく、また新たに安アパートを借り直す案も出てるらしいが、我が家の過渡期がすぐそこまで来てるのは確か。

 


家族というのは不思議だなあ。

 


正解というのは得てして存在しないが、だのに得てして正解は求めてしまうものだ。

我が家の正解が変わるのか、不正解だったから変えるのか。3人の正解は同じなのか。誰かの正解が誰かの不正解でありはしないか。

時の流れが解決するのか。時の流れが問題だったのか。

 

 

 

そういえば、駅にチャリで向かう途中、駅までの道のりにある公園を抜けたところに、新しく第5駐輪場が突如出現していた。突如というのは、建設途中を全く目にしなかったからだが、まあ建設というほどでもない道の端っこに作られたチャリを止めるための金属群なのだから他所で作ったのを持ってきて嵌めるだけだったのだろう。その新しい金属群が西日に照らされてピッカピカに光っていたからか、停まっているチャリたちもどれも新品に見えた。新しいものは周りのものも新しく見せてくれるのか。

 


今はまだ電車に乗ってる。

後輩ちゃんからの支援要請で新歓に参加するため東京に向かう。

輝かしい未来に照らされてピッカピカに光っている新入生たちと話せば、自分もまた新品みたいに光って見えるのか。

できることならお願いしたい。

 

 

ところであの駐輪場、屋根がない。

新しくできたものがいつまでも1番新しく見えるわけではないのね。同じ時間でも、風雨にさらされた方が先に薄汚れる。

 


みんなうちのサークル入ったらいいじゃんね

雨風くらい防いだるっちゅうねん